煙草を吸わない夜

 巻ちゃんが煙草を吸い始めたのはいつからだったか。確か、俺がイギリスに渡り、同棲を始めた頃には既に吸っていた。その頃には巻ちゃんはロードを趣味の延長でしか乗っていなかったので、別段咎める理由もなかったのだが、些か意外ではあった。巻ちゃんと煙草は、俺の中ではかけ離れた位置にあり、二つが結びつくことなど考えもしていなかったから。
 プロのアスリートとなった俺に気を遣ってか、二人でいる時は絶対に煙草を吸わない優しい巻ちゃんだが、俺が遠征などで長い期間家を空けて帰って来ると、灰皿にはそこそこの量の吸い殻が溜まっている。健康に悪いからやめろと何度か言ってみたのだが、巻ちゃんは軽く受け流すばかりで、結局また俺がいないところで吸うのだった。
 そもそも巻ちゃんが煙草を吸い始めた理由とはなんなのだろう。酒にもそこまで興味を示さない(高い酒などを偶然貰えれば素直に喜ぶが)巻ちゃんが、煙草という「百害あって一利無し」なものに手を出すとは、本当に意外にもほどがある。何せ巻ちゃんは自他共に認めるリアリストだ、ロードに関すること以外で何の得にもならないことに自分から歩み寄っていくなんて、何か特別な理由があるに違いない。
 その理由が無性に気になった俺は、直球勝負で巻ちゃんに尋ねてみた。
「なあ巻ちゃん、何で煙草を吸い始めたんだ?」
「何となくっショ」
「巻ちゃんはこういうのを何となくで始めるタイプではないだろう」
「何となくっショ」
「巻ちゃん」
「何となくっショ」
 どんなにしつこく聞いても、少し趣向を凝らして別の角度から責めてみても、返ってくる答えは「何となく」だけだった。
 理由はわからないが、巻ちゃんがその理由を隠しがたっていることはわかり、少しイラつく。巻ちゃんが俺の知らないところで、俺の知らない理由で煙草に手を出し、俺のいないところでそれを吸うのが腹立たしかった。
 他の人間にとっては些細なことかもしれないが、俺は同棲をし始める前の、不安に苛まれ続けた期間を過ごしている。俺から遠い場所で、俺の知らない人間と会い、俺の知らないものに感化されていく巻ちゃんを、電話とメールとたまの逢瀬でしか繋ぎ止めることができない――あの歯がゆくてどうしようもない焦燥感に満ちた日々を過ごしているのだ。だから、その期間のうちに身につけたのであろう「煙草を吸う」ということも、俺にとっては不快で不安なものでしかない。

 ついに俺は、理由を聞き出すことを諦め、巻ちゃんに強制的に煙草をやめさせることにした。
 いつも通り一週間ほどの遠征に出発し、最初の二日間は、普通の近況報告と愛の言葉を書いたメールを送った。しかし三日目のメールは違う。煙草をやめさせるための、強烈な内容のメールだ。

『巻ちゃん、煙草の形をした媚薬があるのは知っているか。ネットで検索すれば出てくるのだが、最近はますます本物とそっくりになっているらしい。巻ちゃんでも見分けがつかないかもしれないな。
ここまで書けばもう予想はつくかもしれないが、俺は遠征に行く前にそれをネット通販で頼み、巻ちゃんの煙草の中に混ぜておいた。もう吸ってしまったかな? まだ吸っていないようだったら、これ以上煙草は吸わない方がいい。俺がいない間に媚薬を摂取してしまうのはつらいはずだ。
もちろん、今ある煙草をすべて廃棄し、新しいものを買ってきてそれを吸うという手もある。だが、わかるだろう巻ちゃん。俺はここまでして巻ちゃんに煙草をやめさせようとしている。そんな俺の必死な罠を無視してまで吸うのならば、俺にも考えがある。帰ったらゆっくり話し合おう。
ではな巻ちゃん! そっちは冷え込んでいるだうから、ちゃんと布団を被って寝ろよ!』

 遠回しな脅迫に近い内容だが、仕方が無い。ここまでしなければきっと巻ちゃんは煙草をやめてくれないだろうから。
 しかし、俺は実際のところ、煙草型の媚薬は仕込んでいない。もしそれを吸ってしまった巻ちゃんが、欲に負けて他の男や女に走ってしまったら困るからだ。巻ちゃんを疑っているわけでは無いし、浮気など万が一、いや、億が一にも無いことではあるが、可能性がある限り俺はそれを無視できなかった。
 三日目のメールの返信は来ず、四日目から最終日まで毎日いつも通りのメールを送ってはみたものの、とうとう一通も返事をくれなかった。
 さすがに怒らせてしまったか、とどんどん気持ちが沈んでいくが、仕方が無い。俺はここまでしないと、不安感を取り除くことができないのだ。

 遠征からの帰路は、いつも早く巻ちゃんに会いたいという思いで完全に浮き足立っているが、今回は違った。緊張が勝っているため、地に足が着いている。
 俺に対して激昂していたとしても、既に何日も間が空いているのである程度怒りは収まっているはずだ。だが、俺としてはハイテンションな怒りの方がありがたい。冷静な怒りを宿した巻ちゃんは、正直何者よりも怖い。もしかして、もう俺に愛想をつかしてしまっているだろうか。そんなことになってしまったら、俺はただ土下座をするしかない。
 若干震える手で、マンションのドアの鍵を開ける。カチン、という音を確認し、ドアを僅かに開けた瞬間――隙間から細長い腕がにゅっと出てきて、俺の襟首を掴んだ。
「うわっ!?」
 思わず悲鳴をあげるが、そんなことはお構い無しに腕は俺を室内に引きずりこむ。暗い玄関だが、その腕は誰の腕だかはわかる。
「ま、巻ちゃん、ただいま……っと!!」
 ぎこちない挨拶すら無視して、巻ちゃんはグイグイと俺を引っ張って行く。現役ロードレーサーの俺と、部屋に引きこもりデスクワークばかりしている巻ちゃんでは、俺の方が力が強い。だがその腕を振り払うことはしない。俺が怒らせて当然のことをしてしまったのだから、好きにさせてやらなければいけないのだ。
 リビングに着いたところでようやく巻ちゃんの足は止まった。なぜかリビングも真っ暗なため、巻ちゃんの表情がよく見えない。とりあえず謝罪をしようと口を開いた瞬間、音も無く顔を近づけた巻ちゃんが、そのまま俺の唇に自分のそれを重ねた。
 勢いづいていたため、俺の体がグラグラと揺れて後退し、壁に背中がつく。その拍子に電気のスイッチを押したらしく、リビングを明かりがぱっと照らす。
 目の前の巻ちゃんの顔はいつも通りなように見えたが、睫毛が震えていて、目元が僅かに赤い気がした。思わず見惚れていると、唇を離さないまま巻ちゃんが目を開いた。瞳はうるんでいて、何かを期待するように揺れている。目のふちと頬の赤さといい、完全に欲情していた。
 ようやく巻ちゃんが長いキスをやめ、体を離そうとした瞬間、俺は巻ちゃんを抱きかかえ、何も言わず寝室に運んだ。俺だって一週間我慢していたのだ。こんなことをされて尚罪悪感が勝るほど、まだ老けていない。

「巻ちゃん、すまなかった!!」
「もういいっショ。事後にベッドの上で土下座されても誠意もクソもねえから。顔上げろって」
 呆れた声でお許しを貰ったので顔を上げると、巻ちゃんはその特徴的な髪を気だるげにかき上げながら、俺が冷蔵庫から取ってきたミネラルウォーターを飲んでいた。よくよく見ると目元はおかしそうに緩んでいて、口に出しているほど呆れていないのがわかる。
「なんでそんなに必死に止めさせようとするんだよ、煙草。別にいいっショ? オマエに迷惑かけてねえし」
「……気に食わんからだ」
「気に食わんって……」
 仕方ないやつだな、とでも言いたげに笑う巻ちゃんを優しく抱きしめ、そのまま二人でベッドに倒れこむ。身勝手な独占欲を持つ俺も俺だが、それを笑みひとつで許してしまう巻ちゃんも大概だと思う。
「今日は巻ちゃんもおかしかったな。長めの遠征の後でも、ここまで積極的になることはないではないか。煙草が吸えないストレスが性欲の方に回ったのか」
「いや……煙草を吸えないストレスというか……」
 目を逸らして口ごもる巻ちゃんの、白い頬にかかった緑の髪をそっと指先で払いながら、さらに追撃する。理由を聞き出せそうな気がした。
「じゃあなんのストレスなんだね?」
「……オレが煙草を吸ってる理由、そんなに聞きたい?」
「聞きたいね」
「グッ……そりゃ……オマエ……オマエと会えない時寂しいからっショ……」
 頬を赤くし、絶対に俺と目を合わせないようにしながら、巻ちゃんは途切れ途切れに言う。
 その言葉に、俺は意表を突かれて口をぽかんと開けた。
「さ、寂しいって……え?」
「口が……寂しいっショ」
 俺の居る場所で煙草を吸わないのは、現役である俺の体を気遣ってではなく、吸う必要がないからだ――。
 小さい声でボソボソとそう説明する巻ちゃんの唇を唇で塞ぎながら、やはり俺はこの可愛い男を一生離してやれないと思った。