酒と涙と落ちた恋

 荒北靖友は、人前で泣くのが嫌いだった。泣くことが嫌いというよりは、弱みを見せるのが嫌いだ、と言った方が正しいかもしれない。弱みを見せるのが好きな人間もそう多くはいないだろうが、荒北は普通の人間より嫌いだという感情が強く、また顕著だった。
 惨めでも、絶望的な状況に追い込まれても、悲しくても、逆に嬉しくても、荒北は人前で涙を見せなかった。感情のまま生きているように見えて、その実誰よりも理性的で、感情を抑えることに長けていたと言える。

 金城真護がそんな荒北の涙を初めて見たのは、大学三年生になってから三ヶ月後のことだった。
 去年までは他校に居て、個人的な付き合いも無かった金城と荒北だったが、命がけのレースを経てお互いの人となりは理解していた。そのおかげで人間関係や信頼を一から築き上げる手間が無かったため、比較的早く二人の仲は「仲間」や「友達」と言えるレベルにまで発展し、自然と行動を共にする関係になっていたのだった。
 酒を飲める年齢になり、サークルの先輩や仲間に誘われて飲み会に参加することが多くなったが、荒北は頑なに酒を飲まなかった。先輩に強要されても、店員に頼んでウーロンハイに見せかけたウーロン茶を持ってこさせ、酒を飲んだふりをするほど徹底していた。
 金城がその理由を尋ねると、荒北は少し間をおいて、
「……本当に弱いんだよ、オレ。一口も飲めねェの」
ともっともらしいことを言ったが、金城にはどうにも言い訳じみて聞こえる。しかし、そこまで嫌がっている人間に無理矢理飲ませるわけにもいかないので、金城は酒を飲んだ荒北を一度も見ないまま過ごしていたのだ。

 そんなある日、いつも通り先輩に連れられてやってきた居酒屋の店内で、ガシャンと大きな音が響いた。
 荒北とは少し離れた位置で飲んでいた金城が、驚いてそちらを見ると、割れたグラスの破片のそばで、荒北がただうつむいていた。荒北が履いているジーンズには、割れたグラスの中身だったであろう紫色の液体が染みて広がっている。
「お、おい、荒北、大丈夫か?」
「……だ……大丈夫じゃねェっスよ……」
「悪かったって、そんなに弱いって知らなかったからさ」
 荒北のそばにいる先輩が、困惑した表情で言う。どうやら先輩が荒北を騙して酒を飲ませたらしいことは、簡単に推測できた。荒北の声は明らかに動揺し、僅かに震えている。黒い髪の毛から覗く肌は、ただでさえ白いのにますます白くなっているような気がした。
 ただならぬ様子に、金城が立ち上がって荒北の横にしゃがみこむ。
「荒北。気分が悪いのか」
「……アァ、ちょっとな」
「トイレに行くか。先輩、俺が連れて行きます」
「あ、うん、悪いな金城」
 荒北の右腕を取り、自分の肩に回させる。左手で荒北の腰を支えて、ゆっくりと立ち上がった。やや足元もふらついているようだったが、歩行が困難なほどでは無いらしく、おとなしく金城と共に個室を出た。
 トイレに向かおうとすると、荒北が耳元でボソリと呟いた。
「そんなに気分は悪くねェから、外に出てェ……ここはあっちィ」
「そうなのか? わかった」
 素直に荒北の言葉に従い、店の外に出る。店の前にある花壇の淵に荒北を座らせ、顔を覗き込んで、ぎょっとした。
 荒北が泣いている。声も上げず、悲しそうな顔もせず、ただただ無表情で。
「あ、荒北……?」
「ごめんネェ、金城。オレ、酒飲むと泣き上戸になるっぽくてさァ……何も悲しいことなんてねェのに、涙が止まんなくってヨ」
「そうか……」
「だから酒飲むの避けてたってのに、クソ」
 荒北が悔しそうに歯ぎしりするのを宥めながら、金城の脳裏にある情報が浮かび上がる。確か、巻島に聞いた話だったか。
『酔ってる時に取る行動って、普段したいけど我慢している行動らしいぜ。この前東堂と飲んだらめちゃくちゃキス魔になってびっくりした。普段からたくさんしてくるくせに酔ってる時もするって、どんだけキスしたがってるっショ』
 さりげなく普段どれだけいちゃついているかを暴露してしまった巻島の言葉を思い出しながら、荒北の横顔を見る。弱みを見せないようにと行動している荒北は、実は泣きたいと思っているのだろうか。誰かの前で泣いてみたいと思ったことは無いのだろうか。
「あんまりジロジロ見ないでくれるゥ? 恥ずかしいからァ」
「あ、ああ、悪い」
 怒りっぽい荒北が激昂もせずに言うのを見て、実は自分はかなり気を許されているのではないかと思い至り、金城は目を逸らしながらふと頬を緩めた。
 高校最後のインターハイの時でも、大学に入ってから幾度と無く乗り越えてきたレースでも、荒北はいつでも強く、頼もしかった。そして、絶対的な信頼を築く仲間がいながら、いつでもどことなく孤高の存在に見えていた。
 そんな一匹狼のような彼が今、自分だけの横で、滅多に見せない涙を、隠しもせずに見せている。その事実に優越感を感じてしまう自分は、おかしいのだろうか。
「なに笑ってンだよ、喧嘩売ってンのォ?」
「いや、違う。ただ、巻島から聞いたことを思い出していた」
「どうせ東堂のことだろ」
 呆れた表情で言う荒北を見て、ますます笑みを堪えられなくなりながら、爆弾のような言葉を放つ。
「人が酔っている時にする行動は、普段したいけど我慢している行動らしい。酔うと泣くお前は、普段は弱みを見せることを徹底的に避けているが、実は泣きたがっているのかと思ってな」
「な……」
「だけどお前は、酔ってはいるが理性は残っているように見える。本当に弱みを見せたくない相手なら、何としても涙を隠すだろうから、もしかして俺は結構心を許されているのではないかと考えたんだ」
 しばし絶句した荒北は、我に返った瞬間金城から思いっきり顔を背け、道路に響き渡るほどの大声で言う。
「バァカ!! 理性なんて残ってねェよ!! 酔ったからちょっとおかしくなって隠すの忘れてただけだっつーの!! こっち見んな!!」
 清々しいほど言い訳だとわかる言い訳をする荒北の、真っ赤に染まった頬と耳を見ながら、金城は穏やかに微笑んでいた。
 微笑みながら、同時に胸中ではこう思っていた。
 まずいな。見てはいけないものを見てしまった。
 どうやら自分は、荒北の涙に落とされてしまったらしい。
 まだ何事かをわめき立てている荒北を眺めながら、金城はこれからどのようにして荒北も恋に落とすか考えていた。