Je te veux

「だから、あの……別れよう、つってるっショ」
「絶対に嫌だ、と言っているではないか。何回言っても同じことだぞ、巻ちゃん」
 目を伏せて気まずそうに言う巻島と、呆れ果てた顔でふんぞり返る東堂の会話は、この一時間ずっと平行線を辿っていた。
 巻島が渡英してから一年後、東堂は一ヶ月に一回程度の頻度で、巻島と巻島の兄が住む家に遊びに来るようになった。巻島と東堂が恋人関係であることを兄は察しているらしく、別段咎めることも追求することもなく、東堂が来ると無言で家を空けてくれた。
 そんな気遣いに感謝しながら、短く貴重な逢瀬を重ねていた二人だったが、ある日突然巻島が別れ話を切り出したのだ。
 理由は、「もう無理だと思ったから」「とにかくオレはこれ以上お前と恋人で居たくない」という、微妙に核心を突いていないものだったので、東堂は当然の如くそれを拒み続けている。もっとも、ちゃんとした理由があったところで、別れを受け入れるつもりは無いが。
「巻ちゃん、こんなつまらない話で時間を潰してしまうのはやめよう。あまり長くは居られないのだから」
「つ、つまらない話って何ショ! オレは真剣に……」
「真剣に別れたがっているのか? その割りには、どうも遠回しで、むしろ別れが決定されてしまうのを恐れているように見えるが」
 ぐ、と言葉に詰まった巻島を見て、東堂はいつもの大仰な仕草で髪の毛を払いあげる。そして満面の笑みで巻島を指差した。
「巻ちゃんの真意はわからないが、本当は別れたくないことくらいはわかるぞ。本心で無いことを言うのは下手くそだからな、巻ちゃんは」
「クッ……本心じゃ無いかもしれねェけど、ちゃんとした理由はあるっショ……」
「ほう? さっきからそれを言いあぐねているようだが、どうなんだね?」
「ぐぐぐ……い、今から話すっショ!」
 弁の立つ東堂と、口下手な巻島の対決は、大抵は東堂が勝つ。論理で言いくるめられてしまうこともあるが、押しに弱い巻島は勢いに飲まれてしまうことも多々あるのだ。
 冷や汗を流しながら必死に言葉を紡ぐ巻島を、愛しげな目で見つめながら、東堂はおとなしくその「理由」を謹聴する体勢に入った。
「お、オレとお前は今、海を越える盛大な遠距離恋愛をしてるっショ」
「うむ、そうだな」
「お前と会える時間は少ない。オレもお前も忙しいし、時差があるし、金も要る」
「オレとしてこちらに移住してしまっても構わないのだがな」
「それはダメっショ! お前はまだ日本でやることがあるっショ。……とにかく、オレとお前は会えない時間が多すぎる。最近のオレは、お前と会える時間を糧に生きてるようなもんだ。慣れてはきてるが、こっちと日本は違いすぎるし、精神的にクることもある。だから、今オレは……」
 言いにくそうに視線を彷徨わせ、最後に覚悟を決めたかのように東堂の瞳を見つめ、巻島は言葉を絞り出した。
「オレは、お前に依存してるっショ、尽八。この依存は、オレのためにも、お前のためにもならない。だから別れようって言ってるっショ……」
 二人の間に沈黙が落ちる。この場に鳴子か荒北が居たら、「ただの痴話喧嘩やんけ」「惚気と変わんねェヨ」とツッコミを入れそうな場面だったが、二人とも至って真剣だった。特に巻島は、今まで人と深い関係を築いたことが無いし、何かを心から信頼するまでに人よりもたくさんの葛藤を乗り越えないといけない性格だ。誰かに依存することは完全に未知の領域で、踏み込むにはあまりにも恐怖が大きかった。
 沈黙を破ったのは東堂だった。
「巻ちゃんはあれだな、口を開けばかわいいことしか言わんな。昔からそうだとは思っていたが、最近はますます許し難いレベルになっている」
 難しそうな顔をして、ピントがずれたことを言う東堂に、巻島は口をぽかんと開けた。数秒後我に返り、掴みかからんばかりに身を乗り出す。
「オレはそんな、その、かわいい話なんてしてないっショ!! はぐらかすな!!」
「はぐらかしてなどおらんよ。巻ちゃんがそんなことで悩んでいたのか、と拍子抜けしていた」
「そんなこと……?」
 ピクリと眉を跳ね上げ、いよいよ激昂しそうになる巻島を、まあまあと両手で制しながら、東堂はニヤリと笑った。
 その笑みに、巻島の怒りが一瞬で鎮火する。一見いつもの東堂と変わらない自信に満ちた笑いだが、目が笑っていない。この笑い方をする時の東堂はどこかタガが外れてしまっているのだと、長い付き合いで巻島は学んでいた。
「今更そんなことで悩むとは、やっぱりかわいいな巻ちゃんは――と、そう思ったのだよ」
「い、今更……」
「そう、今更だ。とっくに依存しきっているではないか、オレも、巻ちゃんも。何年も前から、共依存は出来上がっている」
 ――正確には、オレが出来上げたのだがな。
 最後の言葉を口の中でつぶやくが、巻島には聞こえていないようだった。困惑した表情で身を引く巻島に、今度は東堂が身を乗り出した。
「離れようとしても無駄だよ、巻ちゃん。今離れたらそれこそお互いのためにならん。それぞれが破滅に向かっていくばかりだ。もう後には退けないのだ」
 タマムシ色の髪の毛を一房、指先でそっと持ち上げると、巻島は距離を取ろうとするかのようにさらに離れる。しかし、東堂の手を振り払おうとはせず、表情に嫌悪や恐怖を浮かべることも無い。むしろその逆で、何かを期待しているようにすら見える。そんな巻島を見て、東堂はますます笑みを深める。――その反応が、取り返しのつかないところまで依存している証拠なのだよ、巻ちゃん。
「最初はお前と山を登れるだけで充分だった。次にお前と山以外でも一緒に居たいと思った。それが叶うともっとお前の深いところを知りたいと思った。一つの願望を叶えるたびにどんどん欲が膨れ上がっていって、最終的にオレが望んだことは、この関係だった」
「この関係……?」
 東堂の言葉と雰囲気に押されて、巻島はもはや言葉を繰り返すだけしかできなくなっていた。何かを恐れているような、戸惑っているような、しかしこれ以上の何かを期待しているような顔で、東堂をじっと見つめている。
「さっきも言っただろう? 共依存の関係だよ、巻ちゃん。オレは自分だけが依存していることに耐えきれなくなった。お前もオレに依存して欲しいと思った。……だって不安じゃないか。オレだけが依存していたら、いつお前に重いといって捨てられるかわからない。巻ちゃんも、オレを手放せないほどになってほしかった」
 東堂が椅子をひっくり返すように立ち上がり、二人を隔てていたテーブルを避けて、巻島を抱きしめた。長い髪の毛に顔を埋め、細い肩を抱く。右手で腰を撫でると、巻島の体はびくりと跳ねた。喉をくつくつと鳴らして笑いながら、巻島の耳元で囁く。
「なあ、巻ちゃん。別れようとは言ってみるが、実際にはオレを手放せないだろう? 自分でもわかっているはずだぜ、もう退路なんてないことは」
「じん……ぱち」
「二度と別れたいなんて言わないことだ。さらに思い知らされたくなければな」
 巻島が諦めたように東堂を抱きしめ返す。その感触を感じ取って、東堂は満ち足りたように笑った。
 東堂を抱きしめ、その後頭部を撫でながら、巻島は心の中でつぶやく。
 ――共依存になるように仕組んだとは言うけどよ、尽八。もう一回よく考えてみるっショ。

 ――先に依存したのは、本当に自分だったのかをな。
 耳元で東堂が優しく囁く愛の言葉を聞きながら、巻島は先ほどの東堂と全く同じように、ニヤリと笑った。