悪夢なんて見ない

 荒北は、金城の厚い胸板に顔を埋めて眠るのが好きだった。
 鼻が利き過ぎる荒北は、その分悪臭も敏感に感じ取ってしまう。寝ている時も窓の外から僅かに漂ってくるゴミの匂いによって目が覚めてしまうほどに。反対に、良い匂いや、荒北が気に入った匂いに包まれていると熟睡できるのだ。
 授業や課題、サークルの練習、飲み会が重なり、忙しなく疲れが溜まる日々を送る中、せめて深い眠りだけは確保したい。そう考えていたある日、荒北に恋人ができた。高校時代はライバル校に属し、今では同じチームで精一杯のアシストをする仲となった男・金城真護。何が気に入ったのか壮絶に甘いアタックを仕掛けてくる金城に、荒北もついに折れた。折れた理由は、石道の蛇の名に恥じないしつこさや、信頼できる人柄などもあったが、彼がまとう香りも大きな理由だった。
 花の香りのように優しく、香水ほどに過度に自己主張が激しくない、彼の体から放たれている匂い。彼が使っている制汗剤や洗剤のものかとも思ったが、嗅ぎ比べてみても、すべてを混ぜて香りを作ってみても明らかに違う。金城の匂いとしか言いようが無いそれが、荒北は好きだった。金城のそばにいるだけで、レース前は余計な緊張が取れていくような気がしたし、二人きりの時は眠ってしまいそうなほどの安心感に包まれた。
 荒北は付き合い始めて早々に、一緒に寝る時は抱き合って眠るというルールを作り出した。もちろん、そんなおいしいルールに金城が乗らないはずはない。
 白い瞼と頬、そして安らかな寝顔が一番近くで見れ、しかもその細い身体を軽く抱きしめたり、起こさない程度にならその黒い頭を撫でても許されるのだ。
 行き場を無くしたような荒北の両手が、金城の寝巻きの腹辺りをそっと掴んでいるのも、金城にとっては庇護欲をそそる可愛らしい姿でしかなかった。

 だがここ最近は、一緒に寝ることができないでいる。
 単純に、お互いのスケジュールが合わないのが原因だ。金城は研究室に泊まり込むことが多くなり、金城が空いている日は荒北のバイトが入っている。同じパターンのすれ違いの連続で、講義で顔を合わせるがやっとだった。少しでも一緒にいる時間を増やすために同棲も考えたが、相談して新居を選ぶ暇も、一人暮らしにしては少し広い金城の部屋に引っ越す暇も無いのだ。八方塞がりで、何も改善することができない。
 一人でシャワーを浴びながら、荒北は深くうなだれていた。先ほどからため息ばかり出る。自分にこんな辛気臭いのは似合わないとわかっているのに、それでも気分はじわじわと沈んでいく。
 金城に会いたい。あの優しい香りに包まれて眠りたい。穏やかな微笑みで、声で、手で、愛してると伝えて欲しい。
 普段は思うのも恥ずかしいような願望が、素直に脳裏に浮かんでは消えていく。
 暖かい湯が頭の天辺から浴びせられ、前髪の先から水滴がポタポタと落ちていく。頬や瞼に伝っていく中に、涙を一滴だけ混ぜた。会えなくて寂しいなんて、そんな女々しい理由で泣きたくない。でもどうしても耐えられないから、少しだけ、ほんの少し泣く。
 金城の腕の中でしか、オレはちゃんと泣けない。
 労わるように頭を撫で、ぬるま湯に浸すように慰めてくれる金城の手の感触を必死に思い出し、なんとか涙を堪えた。

 いつもより格段に長い風呂を終えて、風呂場から出た。乱雑に体についた水分を拭き取り、八つ当たりのごとくわざとよれるように寝間着を着て、頭をタオルで擦りながら脱衣所から寝室に向かう。
 寝室に着いた瞬間、荒北はぴたりと足を止め、目を大きく見開いた。
 ベッドに、金城が寝ている。
 幻覚かと思い、よたよたと彼に近寄り、その筋肉が付いた逞しい足に触れてみる。確かに実体があった。
 それに、荒北が求めていたあの香りが漂っている。これこそが何よりの金城が存在しているという証明だった。
「な……なンでオマエ、ここにいるんだよォ……」
 今日は研究室に泊まると、連絡してきたのに。蚊の鳴くような声で問いかけてみても、金城は完全に寝入っているようで、返ってくるのは寝息だけだった。
 久しぶりに見る金城の顔は、どことなくやつれ、頬がこけているようだった。目の下には、眼鏡で目立たないものの、薄く隈が広がっている。起こさないようにそっと眼鏡を外してやると、荒北は思わずその隈を指先で撫でた。
「ったく、このオリコウチャンがァ……睡眠時間削ってベンキョーするのが義務だと思ってンじゃねェだろうな、オマエ」
 責めるような、説教のような、そんな独り言を漏らす。よほど疲れていたのか金城は目を覚まさない。眼鏡を机の上に置き、タオルをそこらへんに投げ捨てると、なるべく金城に衝撃を与えないようにベッドに潜り込む。金城の腕を僅かに動かし、自分を抱きしめているような形にすると、金城の胸に顔を寄せた。その途端、耐え難い眠気と疲労感、そして安堵が襲ってくる。
 思わず縋るように金城の服の裾を掴むと、金城はその振動で目を覚ましてしまった。
「アッ……金城、ゴメン。起こしたァ?」
「あら……きた」
 金城は数秒間、荒北を焦点の定まらない目で見ると、不意に強く抱きしめてきた。いつもするように、荒北の白い首筋に鼻先を埋める。
「荒北……」
「ン……」
「やっぱり、お前の匂いは安心する……」
 どこかふわふわとした声色の呟きに、荒北は一瞬だけぽかんとして、すぐに吹き出した。
「バァカ、それはこっちのセリフだってェの。ていうか何でいるのオマエ」
「……荒北に会えなくて……寂しくて、耐えきれなくて……無理矢理実験を終わらせて来た……」
 相変わらずの寝ぼけた口調だったが、荒北の胸を高鳴らせるのには充分すぎた。
 金城もちゃんと寂しさを感じていてくれた、という事実が何より嬉しくて、荒北は半ば衝動的に軽いキスをした。
「っ、荒北」
「おやすみのチューだよォ。オヤスミ、金城」
「ああ、おやすみ……」
 優しい香りと優しい恋人に包まれて、荒北は久しぶりに幸せな夢を見る。