Quietus

「ンー……きん、じょう」
「ん? どうした?」
 俺の太腿の上に頭を置いて寝転がり、うつらうつらしていた荒北が、不意に声を上げた。
 目はとろんと垂れ、声は眠気を含んでいる。今にも本格的に寝そうな様子だ。
「金城ってばァ……」
「だから、どうしたんだ荒北」
 睡魔により頭が回っていないのか、返事をしているのに執拗に名前を呼んでくる荒北が、まるで小さい子供のようでどうにも愛しい。安心しきった甘く浮かれた声が、盛大に庇護欲を掻き立てる。力もあり背も高い大の男に向かって、「こいつのそばには俺がいてやらなければ」と思ってしまう。
「ソレ、置けよォ……」
「それ?」
 荒北が何を指して言ったのかわからず聞き返す。すると、荒北の白い腕が下から伸びてきて、俺が手に持っている本をするりと取り上げた。本を持った瞬間、そのごく薄い文庫本の重さに耐えかねたかのように、腕が床の上にぱたっと落ちた。
「何がしたいんだ、お前は」
 本当に子供みたいだ、という言葉をかろうじて飲み込む。こんなことを言ったら機嫌を損ねてしまうだろう。もしかしたら眠気を飛ばしてしまうかもしれない。プライドが高いこの男が、何もかも頭の中から追い払って素直に甘えてくれるのは、ベッドの中か睡魔に襲われている時だけだ。貴重な機会を逃したくない。
「撫でてェ」
「え?」
「オレのこと撫でてって言ってンのォ……早くゥ、オレ寝ちまうからァ」
「無理をせず寝ればいいだろう」
「金城に撫でてもらわねェと……寝れねェ……」
 必死に目を開けながら弱々しく言う荒北が、言葉だけではなく体でも強請るように頭を突き出し、金城の脇腹にグリグリと当てる。金城は思わず微苦笑し、望み通りその黒い頭を撫でてやる。やや小さめの頭をゆっくりとさすったり、掬い上げればさらさらと指から零れ落ちていく黒髪を弄んでいると、荒北はようやく満足したようで、黙り込んだ。
 薄く隙間を空けていた白い瞼が、泥が壁を伝って落ちていくように、とろとろと閉じていく。くあ、と小さいあくびをすると、荒北は完全に瞳を閉じた。十秒後には幼い寝息が聞こえてくる。数センチだけ開いた窓から、涼やかな一陣の風が吹き込んできて、荒北の前髪を揺らす。風に反応してまつげがピクリと動いたが、起きる気配は見せない。
 起こさない程度に、そっと、荒北の頬に触れる。できものなど一回もできたことがなさそうな、白く滑らかな肌。腹も胸も肌も唇も、どこもかしこも薄い。色素も、厚さも。
 この薄い男の背中が、レース中は何よりも頼もしく、たくましい。金城は常々不思議に思っていた。あの凶暴な闘争心を、隠すところが無さそうな体と、隠し事が苦手な心の、どこに忍ばせているのだろう。普段はまるで気まぐれな愛玩動物のようで、野獣じみた雰囲気など少しも表さない。
 考えてみてもわからないけれど、この男のそういうところが確かに好きだと、金城は思う。
 荒北の頭を太腿に乗せたまま、金城も仰向けに横たわる。昼寝にはちょうどいい気温だ。何もかも穏やかで、目を覚まさせるほどの刺激的なものが無い。この場には、浅くて流れが遅い川のように、愛情と信頼が流れている。
 それが心地よくて、金城はふっと目を閉じ、そのまま眠りの世界に落ちて行った。

「珍しいなァ、オマエもオレと一緒になって昼寝とかさァ」
 荒北の声で目が覚めた。この世に存在する方法の中で、もっとも幸せな起こされ方だと、金城は思う。
 荒北はいつのまにか金城の横まで移動していた。肩肘をついて手で頭を支え、金城の顔を覗き込んでいる。唇は僅かに綻び、目元は優しく緩んでいた。「オマエを愛している」と表情だけで伝えんばかりのその顔に、金城の胸が甘く締め付けられる。
 思わずその顔に向かって腕を伸ばし、荒北の頬に手を添える。正しくご満悦といった様子で、荒北はその手にすり寄ってきた。
 荒北は、触れられるのが好きだ。他人や、会ったばかりの人間に触られるのはひどく不快らしいが、心を許した相手の体温を感じるのが好きらしい。さすがに友人などに「撫でて」と要求することはなかったようだが、チームメイトに抱きついたり、肩を組んだりすることが一番多かったのは、実は荒北のようだった。特に福富が一位でゴールした際は必ず抱きついていたと、この前の飲み会で新開から聞いた。
 その飲み会に居たのは箱学のメンバーと総北のメンバーで、巻島と真波は都合で来れなかったが、福富は居た。その日は荒北は久しぶりに会う福富にべったりで、こちらには目もくれなかった。福富が金城と話したがっても「あんなヤツどうでもいいだろォ?」と自分のそばを離れさせなかったほどだ。
 そんな話を聞かされ、こんな状況で、嫉妬しないはずがない。
 あの日の夜は随分荒北を泣かせてしまったと、今さら反省する。
「金城ォ? ナニぼーっとしてンだ」
 早く撫でろ、と催促するように、荒北が金城を睨みつける。その剣呑な視線の中にすら甘えが混ざっていて、少しも怖くない。子猫の甘噛みのようだ、と金城は心中で笑う。噛むという行為自体は恐ろしいものだが、生えきっていない歯で噛まれても痛くないし、それがその猫なりの愛情表現だと思えば、少しも疎んじる気持ちが出てこない。
「なァ金城、聞ーてんのかよォ」
 妙に間延びした口調は、自分の言葉に反応しない金城への不安を隠すためのものだと、金城は知っている。僅かに眉根が寄り、眉間に浅くシワができていた。頬に添えられた金城の手に、自らの手をそっと重ね、何かを確認するように撫でる。この不安げな仕草と表情を、福富は、新開は、東堂は――きっと、知らない。金城の中の優越感が首をもたげ、満足感に支配されていく。
 やっと頬を撫でてやると、荒北はあからさまにほっとした顔をする。目を細め、気持ち良さげに撫でられている荒北を見ながら、また物思いに耽る。
 荒北に「捨てられるかもしれない」という恐怖を植え付けたのは、金城だ。
 飲み会が終わった夜、金城は荒北を酷く泣かせた。しかしそれは無理矢理組み敷いたわけでも、怒鳴り罵ったわけでもない。
 ひたすらに、無視した。いつもは荒北の言葉や仕草に細かく反応を返す金城が、不機嫌な様子すらも見せず、ごく普通に荒北を無視した。まるでいないかのように扱った。飲み会の間中無視された辛さを荒北も味わってみればいいという、小学生のような思考だった。金城にも酒が入っていたため考えが安定していなかったのも、らしくないことをした原因の一つだろう。
 荒北も最初はそれに不服を抱き、同じく無視したり、怒鳴ってきたりした。それすらも無視していると、荒北は徐々に弱気な言動を取るようになり、最後には親に叱られた子供のように泣きじゃくった。
 なんで無視するんだ、オレは何かしたのか、言ってくれ、謝るから――。
 荒北のあんなに素直でへりくだった謝罪を聞いたのは、初めてだった。身に覚えがないのに一方的に無視されているのだから、荒北の性格からして泣きながら縋り付くことなど到底ありえないと、金城は踏んでいた。なので、荒北がそんな行動を取ってきた時は大層驚き、すぐさま嫉妬や意地の悪さを投げやった。荒北を抱きしめてひたすらに慰め、大人気ないことをしたと謝り倒した。
 それでも荒北はなかなか泣き止んでくれず、三時間ほど頭を撫で続け、真夜中を通り越し明け方になろうかという段階で、ようやく金城の腕の中で眠りについたのだった。
 翌日には元通りになっていたが、あれ以来荒北は、金城に無視されることを極端に恐れるようになった。金城は荒北が予想よりも自分に依存していたことに驚愕しつつも、次第にそれは醜い優越感へと変わっていった。
 福富に捨てられる恐怖を味わったことなど、きっと無いだろう。荒北に打ち込んだ恐怖心は、俺だけのものだ。
 荒北の腕を引き、抱きしめる。こんな風に荒北に触れるのは、俺だけでいい。過去は変えられないが、未来は変えられる。こいつを一生離しはしない。荒北が触れられて嬉しがるのは、俺だけでいいのだ。
 金城の胸板に幸せそうに擦り寄る荒北の頭を撫で、頭の中で形作っている暗く重たい考えを微塵も感じさせないような、清らかな笑顔を作る。
 人を純粋に愛することが純愛ならば、俺の想いだって充分純愛だと思うんだ。
 一生離さないと決めた、尚且つ自分から離れることができない存在が、何よりも愛おしい。
「もっと依存してくれればいい。俺と同じくらいに」
「ン? 今何か言ったァ?」
「いや、聞こえてなかったのならいい」
 ちょうど腕と腕の間に顔を沈み込ませていた荒北は、耳が塞がれていて金城の言葉は聞こえなかったようだ。不思議そうに聞き返してくる荒北に、誤魔化しではない言葉を掛けた。