いつかお前との馴れ初めを俺達の子供に話したい

「いつか子供が欲しいと思ってるんだよね」
「え、ていうことは結婚も考えてるの?」
「うん、まあ」
「すごいじゃん! いいなあ、そういう人に会えて。羨ましー」
「あんたにもそのうちいい人できるって」
 金城と待ち合わせをした小さな居酒屋で、なんとなくスマホを弄りながら、ぼんやりと隣の席のOLの話を聞く。甲高い声に滲む確かな幸せが、理由は無いのに羨ましいと思ってしまう。なぜだろう。
 オレには金城がいる。おそらく一生を添い遂げるであろう恋人が。どちらかが女だったら間違いなく結婚していたし、子供だって産んでいた。幸福そうな友人に羨望の目を向けるOLと違って、オレにはその「いい人」がいるのだ。
 金城と結婚できたらよかった、と思ったことは、正直何度もある。こいつの子供を生んでやりたいと思ったことも確かにある。こいつかオレに似た子供を生んで、二人で育てていけたらどんなにいいか、と考えて、恥ずかしい話だが涙を零した日もあった。
 あと数年経てば、オレ達は大学を卒業する。就職するのか、大学院に進むのか、それとも別の道を選ぶのかはわからないけれど、今のままではきっといられない。確実に一緒に過ごせる時間が減る。それを補うために、同棲し始めたりするかもしれない。早く帰ってきた方が飯を作ったり、家事を分担したり――当たり前のように同じ家で生活して、結婚生活の真似事のような、そんな日々を送る。それでも、どれだけ抱かれようと、オレは孕むことができない。命を賭けて守ってやりたいほどに可愛い生命を。
 結婚できないとは言うけれど、同性婚が可能な海外に移住すれば結婚できる。オレの知らない、地位があって偉い誰かに認められた結婚ができる。けれど、やっぱり子供は生めない。何かを生んで育てることができない。オレと金城の間には何も生まれない。
 あの紙切れが、そこまで重要な意味を持つとは思えない。法と国に認められた夫婦になる契約書。実際、現在の日本では婚姻届を提出しない結婚である事実婚をするカップルが増えているし、昔ほど正式なものが重要視されなくなっているのかもしれない。オレだってそんなに必要なものだとは思わないのだ。でも、子供というものは、結構オレの中で重いものだった。
 結婚しても子供を産まない男女は多く、今では少数派ではない。同性愛者のみならず、異性愛者でも子供を生まない、もしくは生めない人はたくさんいる。なのに、なぜオレはこんなにも子供が欲しいんだろう。
 金城遅ェな、と心の中で毒づきながら、さりげなく店内を見回す。
 奥に座っている若いカップル。その手前の熟年夫婦。会計を済ませている一人のサラリーマンは、娘と妻らしき女が写った写真を財布から覗かせている。土木作業員っぽい男数人のグループは、近頃話題の可愛いアイドルの熱愛報道で盛り上がっている。右隣の真面目そうな女性は、真剣な顔で結婚情報誌をめくっていて、どうやら式場を選んでいるらしかった。
 普通に過ごしているだけでも、周りの人間が、世界が、オレ達と他の人間の違いを見せつけ、実感させてくる。結婚。子供。この二つがなぜオレだけを苦しめるのか、それがわからない。事実、金城はそういうものを気にする素振りを見せたことが無い。俺には荒北がいればいい、という言葉を、これ以上のことはないとでも言いたげに囁くだけだ。オレだって金城がいれば充分なはずなのに、どうしてもオレに子供が生めないという現実が、オレを定期的に苦しめに来るのだ。打開策の無い責め苦を、味合わせてくる。
「待たせたな」
 考え込んでいたオレの耳に、世界で一番好きな声が届いて、反射的に顔を上げた。そこにはようやく到着した金城が居て、机を挟んで向かいの椅子を引き、座り込む。注文を取りに来たオバチャンに、焼きそばと生ビールを頼むと、オレの顔をじっと見た。思い悩んでいることを悟られた、と直感し、誤魔化すように声を張り上げる。
「ホンット、やけに遅かったじゃナァイ。30分遅刻だぜェ」
「すまない。大学を出る時に教授に捕まってしまって、なかなか離してくれなかったんだ」
 優しい金城は、オレの見え見えな言葉に誤魔化されてくれる気になったようで、オレが何を考えていたか言及することはなかった。その気遣いに溢れた優しさが、抉られて切りつけられてボロボロになった心に沁みて、どうにも痛かった。


 別に、深い意味は無かったのだ。
 自転車競技の雑誌を買いに本屋に行って、そうしたらたまたま有名な結婚情報誌が目に入って、いつもの胸の痛みがやってきて。やけになって思わず雑誌を手に取ってしまって、わざわざ本棚の前にいる女達を掻き分けて手を伸ばしたので、本棚に戻すのも何だか気まずくて――そのまま買ってしまった。ちょうど金には余裕があったし、こういうモンはまったく読まないから何か勉強になるかもしれないし、と謎の行動をとった自分を無理矢理納得させる。
 自分の部屋で一人、雑誌をパラパラとめくる。幸せそうに微笑むモデルの女が、華やかなウェディングドレスをまとい、綺麗なステンドグラスのある教会に立っていた。当たり前の光景に、またも酷く胸が痛むのに、ページをめくる指が止まらない。婚約指輪の情報、式場の案内、新居や家具の写真――ありとあらゆる輝かしい未来が、そこに詰まっていた。巻頭はプロポーズのプラン特集が組まれている。巻末には子育関係の雑誌のラインナップが書かれていて、またもオレを惨めな気分にさせた。
 一通り見終わったあと、オレは力無く雑誌をそこらへんに投げた。何をやってンだ、オレは。わざわざ自分を追い込んで、どうにもならないことに悩んで。金城があそこまですっぱりと結婚や子供を作ることを諦めているのは、どうにもならないと完全に認めているからだと思う。あいつはどうにかなることに対しては諦めが悪いが、本当にどうにもならないことは潔く諦めることができる。未練たらしいオレと違って。
 失意の底に沈み込んでいると、不意にスマホが鳴る。画面に表示された名前は、金城だった。出るか出ないか迷って、結局出ることにした。緊急の連絡だったら面倒だし。
「……もしもしィ」
『ああ、荒北。すまないな突然。明日の一限のことなんだが――』
 金城の優しく深い声がオレの耳に入った瞬間、オレの目から涙がボロっと零れ落ちた。話の内容は全然頭に入らない。金城に泣いていることを悟られないように、唇を噛み締めて嗚咽を抑えるだけで精一杯だった。
 この男がどうしようもなく愛しい。当たり前の幸せを与えてやれないのに、コイツには幸せになってほしいのに、どうしてもコイツの手を離してやれない。オレ以外の誰かを選べと、言ってやることができない。
『……荒北? どうした、聞いているのか?』
 言葉を返さないオレにとうとう違和感を覚えたらしく、怪訝そうな声で金城が尋ねてくる。何か、言い訳をしなければ。取り繕わなければ。アァ、悪りィ聞いてなかった。最初から言ってくれるゥ? なんでも無い声で、そう言わなければ。
 意を決して口を開いたが、漏れるのは言葉じゃなくて、震える吐息だけだった。こんな時にだけ察しの良いアイツは、それだけでオレが泣いていることを感じ取り、「すぐにお前の家に行く」と言い残してそのまま電話を切ってしまった。
 何だヨ、来んなっつーの。こんなみっともないトコ、オマエにだけは見られたくないんだって。
 そう思っているのに、心のどこかがあの温もりを求めてしまっていて、電話をかけ直すこともなくオレは泣き続けた。


 泣き疲れて眠ってしまっていたらしく、意識を取り戻した時、オレは床の上ではなくベッドの上に横たわっていた。自分で移動した記憶も無い。きっと合鍵を使って入ってきた金城が、オレを運んだのだろう。
 天井を見上げてなぜか冷静に状況を理解し終わり、机がある方を見た。そこには予想通り金城が座っていた。そして、その手にはあの雑誌が握られていて、金城はそれを熱心に読んでいるようだった。
 頭が回り、察しは悪いが勘は鋭い金城ならば、その見慣れない雑誌が俺の横にあった時点で、すべてを悟っただろう。オレが何に悩んで、何を嘆き悲しんでいたのかを。
「……金……城ォ」
 いまだに震える声で、名前を呼ぶ。なァ、オマエはどう思ったんだ。オマエと違ってそんなことで悩むオレを見て、どう思った。何でもいいから、言ってくれ。
 金城が静かに顔をあげた。雑誌を机の上に置き、ベッドに歩み寄る。オレが上半身をゆっくり起こすと、金城がそっと抱きしめてきた。無言で金城の肩口に顔を埋める。柔らかい香りがオレを包んで、安心感でまた泣きそうになる。
「荒北」
「……ウン」
「結婚したいのか、俺と」
「……できるなら……したい」
 驚くほどに素直に、言葉が出た。金城は俺の背中を緩やかに摩りながら、今までよりもずっと穏やかな声で言う。
「お前がしたいのなら、俺もしたい。日本では無理だから、式を上げるだけにしようか。本当に結婚がしたいのなら、海外に行こう。大学を卒業したら、巻島もいるしイギリスにでも住むか」
「……いいのかヨ、なァ、金城。それ、本気で言ってンのかヨ。オレとの結婚のために、高い式場確保すンのかヨ。オレの、自己満足のためだけにッ……海外に移住すンのかヨ」
「俺は本気だ。前も言っただろう。俺は荒北がいればそれでいいんだ。どんな場所でも、どんな困難でも、お前が横にいてくれればいい。それにお前の願いはできるだけ叶えてやりたい。お前が望んだ時点で、それは俺の望みになるから、自己満足じゃない。お前が俺を愛しているように、俺もお前を愛しているからな」
 オレの女々しい考えをすべて肯定するその言葉に、感謝と愛情が入り乱れたわけのわからない感情がこみ上げて、オレは言葉を失う。縋り付くように金城の背中に手を回し、抱きしめ返す。
「……金城、オレ……オレ、子供、欲しい……」
「……!」
 金城が静かに息を飲んだのがわかった。一旦素直になってしまったオレの心は、とめどなく本心を流す。
「オマエの、子供が欲しい。オマエの子供を産んでやりたい。オマエのために、オマエの子供を生みてェ……」
「……荒北、それは俺のためにならない」
 予想外の返答にオレは、エ、と間抜けな声を漏らした。
「お前が俺のためにそんなことを考えてくれていたのは嬉しい。だがな、先ほどから言っているだろう」
 金城が俺から体を離し、恐らく涙と鼻水にまみれているであろうオレの顔を、真っ直ぐに見つめてくる。
 その真摯な瞳に貫かれたかのように、オレは押し黙る。
「俺はお前が居れば充分だ。それは同時に、お前以外は何もいらないということになる。俺は子供は要らない。お前が俺以外の人間に愛情を注いでるところなんて、見たくないんだ。前から常々不思議だった。なぜ恋人になり、夫婦になると、子供を欲しがるんだろうと。俺は好きな人との間に子供なんて欲しくない」
 だからな、荒北。金城はとろけそうなほどに甘い微笑みを浮かべる。
「俺は、お前が男で良かったと思っている。子供を生めない男で、良かった」
 沈黙が降りた。何もかも予想外すぎて、オレは完全に混乱していた。金城は、欲しくないんだ。本当に。オレ以外には何も要らないんだ。金城は戸惑うオレを愛おしそうに見つめている。その完全に緩んだ表情に、ふっと耐え難いほどの愛情が心の底から湧き出てきて、衝動に任せてオレは金城にキスをした。
 金城は面食らって少し瞳を揺らしたが、すぐに目を閉じた。しばらく唇を重ねた後、オレは金城から離れて、言う。
「なら、いいんだ。オレも欲しくねェ。オマエが欲しがってると思ってたンだ、子供。でも、オマエが要らねェって言うンなら、オレも要らねェよ」
「そうか」
 金城は嬉しそうに、幸せそうに微笑むと、またオレを抱きしめる。オレも金城を抱きしめ返す。金城の腕の中が、オレが世界で一番好きな場所だ。
 金城が、らしくもなく浮かれた声で、オレに囁いた。
「余計な心配も悩みも、もうなくなった。これで俺達、永遠に二人っきりで生きていけるな」