荒北靖友の楽しい拘束生活

 目の前にいる人物は、紛れもなく荒北靖友だった。かつて自分のアシストをしていた、荒々しくも気遣いができる男。
 だが、福富は言い様の無い違和感を感じている。高校時代の荒北とは、明らかに違う。決定的に、何かが。
 人の気持ちの機微や変化に疎い福富は、それがなんなのか知ることができなかった。また、自分が感じた違和感を誰かに伝えることができるほど、言葉で表現することが得意なわけでもない。誰かにうまく説明することなどできないだろう。
 しかしそれは杞憂に終わった。現在もチームメイトである新開は、その違和感を同じく感じ取ったようだった。その新開は少し眉をひそめ、ぼそりと呟く。
「悪い変化か良い変化かはわからねえ。けど、靖友はもう俺達が知る靖友じゃねえってことはわかるぜ」
 新開がどことなく不満げな口調になってしまうのも、仕方が無いと思った。奇跡のように熱く尊い高校時代を過ごした相手が、卒業してから二年も経たないうちに変わってしまったのだ。福富は不満に感じる気持ちよりも、寂しさの方が勝っていた。あの時の荒北にはもう会えないのだと、はっきり突きつけられた気分だった。
 レースで久しぶりに再開した荒北は、外見も、口調も、性格も、何ら変わっていなかった。福富を見ると嬉しそうに口元を綻ばせ、新開を見るとつっけんどんながらも最近の体調について心配をした。かつての仲間を思いやる不器用な優しさは、少しも変化していなかったと言える。
 突き詰めて考えると、金城と荒北の関係に違和感を感じていたのかもしれない――と、福富は考えた。
 荒北が自分以外の人間と組むことなどありえない、と思っていたわけでは無い。ただ、荒北があそこまであっさりと馴染んでいたことが、どうしようもなく不安を煽った。
 いや、馴染んでいたどころの話では無い。むしろ荒北は「ここが唯一のオレの居場所だ」とでも言いたげなほどに、完全にその場に収まっていた。欠けたピースが一つもないパズルのように、ぴったりと。福富の隣にいるのではなく、金城の隣にいることこそが正解だったのかもしれないと錯覚させられそうになり、福富は頭を振った。さすがに被害妄想が過ぎる。荒北も、それに金城も、そんなことは微塵も考えていないだろう。
 きっと、荒北の中でオレ達が過去になっただけなのだーー福富はそう結論づけた。過去を過去とするのは誰でもやることだ。過去に縋っていては前に進めず、未来も無い。現在をしっかりと見つめ、適応しなければならないのだから。
 福富と新開が寂しさを感じているように、荒北もきっとそれを感じたはずだ。だが、それを振り切って今を歩んでいるのだ。
「オレ達も、いつまでも留まっていてはいけない」
 福富はそう呟き、気分を切り替えるように勢い良く立ち上がり、トレーニングへ向かった。

 無意識のうちに、福富は重要なことを頭から追い払っていた。
 福富が重大な違和感を感じていたのは、荒北ではない。金城の方だった。彼の中でもはや尊敬を通り越して信仰の域へ突入している金城は、福富の思考を鈍らせ、金城にとって都合の良い方向へ揺り動かしていた。金城に対しても公平な感情を持つ新開ならば、正しく違和感の原因を見極めることもできただろうが、新開は高校時代の金城についてそれほど詳しくなかった。以前の金城と現在の金城を脳内で見比べてみることが、できなかったのだ。
 福富と新開が感じた違和感は、もっともらしい結論に落ち着き、いつしかその感覚さえ二人の中で薄れて行った。
 ゆっくりと時間が流れていくごとに、誰も違和感を感じなくなっていく。
 金城が荒北を見つめる時の、表面だけは穏やかだが、中では冷徹さと苛烈さが入り混じっている、到底ただのチームメイトに向けるとは思えないほどの執着の瞳を、誰もが忘れ去って行くのだ。
 金城の、計画通りに。


「久しぶりに会ったな、福富と新開に」
「ン? ……アァ、そうだなァ」
 入学したての時はあれほどかつてのチームメイトの話をしていた荒北が、今では金城から話を振らないと話さないほどにまでなっていた。金城が二人の名前を出すと荒北は一瞬ぽかんとして、すぐに思い出したように同調した。ほんの三時間ほど前まで、血が煮えたぎるようなレースをしてきたというのに、荒北の脳内から既に消え去りつつあったのだ。それを察した金城は、心の中で笑った。何もかも計画通りで、逆に不安に駆られるほどだ。
 対して荒北は、戸惑っているような、不安そうな顔をした。自分の中から箱学が薄れていくのを自覚して、焦りを感じているようだった。原因が金城だとわかっている荒北は、目の前で穏やかに微笑む金城を睨みつけたーーが、その目には紛れもなく縋るような色が含まれていた。
 オレを縛りつけて、こんなにしたのはオマエだ。もうオレにはオマエしかいない。だから、オレを縛り続けてくれ。
 長年自由を奪われた人間は、いざ自由を与えられると、何をしたらいいのかわからず途方に暮れるという。そんな人間には、今更自由を与えてやるのではなくーーずっと閉じ込め続けていた方が、その人のためになるのではないかと、金城は思っていた。その方がきっと幸せだ。
 荒北と金城の付き合いは短い。だが、金城は充分すぎるほどに、荒北の拘束を終えていた。金城から縄を括りつけることはせず、ただ荒北が自ら自分を金城の縄で縛り付けたのだ。手中に飛び込んで来るしか無い荒北が哀れで、愛しくて、どうしようもなく可愛らしかった。ずっと自分のそばに閉じ込めて、ずっと幸せにしてやりたいと思う。そして徐々に、チェレステカラーの首輪の主を忘れさせたいと思っていた。その目標も達成されつつある。
 金城が宥めるように荒北の手の甲を撫でると、荒北の表情から抗議と不満は消え、すぐに安心しきったものとなった。そのままそっと指先を絡めると、付き合いたての初心な女性のように、頬を赤く染める。落ち着かない様子でフラフラと視線を彷徨わせ、照れた口調で言う。
「オマエ……真顔でこういうことしてくンのやめろ。恥ずかしいだろォ」
「お前の羞恥心がどこに反応するのかがわからないな。付き合い始めて一年半にもなるのに」
「ッオマエが妙にムード出してくるからだヨ!! その少女漫画のヒーローみたいなキラキラオーラを今すぐやめろォ!!」
「そんなものを出しているつもりは無いんだが……」
 クスクスと笑うと、荒北は真っ赤な顔でまた睨んでくる。そこには不安など無く、照れ隠ししか見えない。こうやって、荒北は簡単に誤魔化されてくれる。荒北も金城の隣にいることを望んでいるからだ。
 完璧な利害の一致だ。俺達が一緒にいる理由はあれど、離れる理由などどこにもない。
 卓袱台を挟んで座っていたが、触れたくなって座ったまま荒北の隣に移動する。肩を優しく抱くと、荒北は開き直ったのか、睨むのをやめて自分から金城に体をすり寄せた。誘うような仕草に、金城は衝動に任せて荒北を抱きしめた。
「きん、じょォ」
 戸惑うような、期待するような、咎めるような、複雑な声色で荒北は金城を呼んだ。それでも、しばらく待つと荒北は金城の背中に腕を回し、抱きしめ返してくる。
 不安がることは無いんだ、荒北。お前の中から完全にあの頃の箱学が消え去ることなんて無い。ただ、今目の前にいる俺しか見えなくしただけで、高校時代のお前や福富達がいなくなるわけじゃないのだから。
 荒北の脳内に直接囁くように、耳のすぐそばで「好きだ、好きだ」とひたすらに囁く。伝わればいい。荒北を繋ぎ止める縄の一本になればいい。
「も、だァからそういうのやめろって言ってンのォ!」
 耐えきれずにがなりたてる荒北の後頭部を撫で、そのまま両肩を押してゆっくりと倒す。先ほどよりも顔が赤くなった荒北が、何かもごもごと言った後、観念したように
「……ここでヤるのは嫌だからネ、背中痛くなるしィ。ベッド連れてけヨ」
 フッと微笑んで、荒北を横抱きにすると、ベッドまで運んで行く。そのまま衝撃を感じないように優しく下ろし、改めて荒北を見下ろす。すると荒北は、悔しげに呟いた。
「オマエのそういう優しいトコが、オレをダメにすンだってわかってンだヨ……」
「でも、今更離れられないだろう?」
 金城がもともと低い声をさらに低くして言う。荒北が泣きそうな顔をしたのを見て、すぐに慰めるように軽いキスを落とす。
「大丈夫だ、荒北。離れられないのは俺も同じだ」
「……何が大丈夫なンだヨ、余計重症じゃねェか……」
 荒北の声に嬉しげな音が混ざったのを、金城は聞き逃さなかった。

「……厄介な蛇に捕まっちまったなァ」
 朝の日差しの中、安らかな寝息を立てる金城を眺めながら、荒北は思わず呟く。
 付き合いたての頃は、ここまで狡猾だとは思っていなかった。自分が何の抵抗もなく計画の一部に組み込まれ、流されてしまったのも予想外だった。何もかも荒北には初めての体験で、抗いようがなかったのだ。
 寝ているというのに、荒北を抱きしめる腕は固く組まれている。絶対に逃がさない、と金城の体さえ主張しているようで、荒北は薄ら寒いものを感じたが、同時にそれを嬉しいと思ってしまうのも確かだった。
 誰かをこんなに好きになったのも初めてで、誰かにこんなに好かれたのも初めてだった。金城はきっと自分を逃がしはしないだろうから、こいつが自分の最初で最後の人なのだ。
 そう考えると、やっぱりどうしようもなく嬉しかった。この、優しくて、穏やかで、強くて、時には正しくない手段も選ぶ、自分を愛してくれる男が、一生を添い遂げてくれる。それがどれほどの幸福か、荒北はよくわかっていた。
「……オレはお前のモンだし、お前はオレのモンって事だよなァ……」
 独り言を漏らすと、また緩やかな眠気が襲ってきた。レースが近いからと遠ざけていた久しぶりの行為に、体が随分疲れていたのだと知る。欠伸をひとつすると、のそのそと金城の腕の中で体を縮め、眠る体勢に入った。
 ゆらゆらと思考が揺れて、現実が遠のいていく。不意に、金城の腕に力が入り、荒北は一瞬だけ覚醒した。それと同時に降ってきたのは、自分を雁字搦めにしている縄の主の、低くて甘い声だった。
「その通りだ、荒北。お前は俺に縛られているし、俺はお前に囚われている。お互いが、お互いのものだ」
 その言葉に多大なる満足感と幸福感を得て、荒北の思考はまた、眠りの世界へと落ちて行った。。