酒と涙と落ちた恋

 野獣と例えられる荒北だが、実際のところは野良猫に似ていると、金城は密かに考えていた。
 鼻が利くところ、挑戦的な態度、飢えた獣に酷似した鋭い眼光、狼が牙を剥くようにして口を開くところ。こうしてあげてみれば野獣にしか見えないが、それは敵として荒北を下さなければならない者から見た姿だ。
 味方になり荒北の背後に回ってみれば、その背中は荒々しさよりも先にしなやかさが目立つことに気づく。相手を威圧しようと逆立っているのではなく、なめらかで触り心地が良い流麗な毛並み。そう、ちょうど荒北本人の髪の毛のように、漆黒でさらさらと揺れる毛並みを持った野良猫だ。

 この野良猫のかつての飼い主は、もう荒北の背後にはいない。
 合意の上で着けられたチェレステカラーの首輪は、やはり合意の上で外された。荒北が福富に告げた「洋南大学を目指す」という言葉の裏には、お前から離れるがそれでもいいか、という確認もあったはずだ。そうして福富はその言葉に頷き、首輪の鍵を外した。
 荒北の手にはまだそのチェレステカラーが握られているが、それはもはや首輪ではない。荒北が自由に走るための道具だ。首輪という証ではなく、ただの手段のひとつとなった。荒北は野良猫になった。
 荒北がなぜ首輪を外すことを選び、福富がなぜ合意を示したのか、金城にはわからない。問えば答えてくれるのかもしれないが、金城には二人の間にあった出来事に踏み込む勇気がなかった。金城にとって、あの高校時代の箱根学園自転車競技部という存在が、聖域のように感じられていたのである。二人以外は触れることさえ許されない、聖域。
 荒北がどのようにして福富に救われたのか。福富が荒北に自分のアシストを任せた理由とは。すべて言葉で語ろうと思えば語れることではあるが、二人の間で起きた細やかな感情の変動や、その時の表情の動かし方、場の空気の匂いは、金城には永遠に感じ取ることはできないのだ。
 疎外感、劣等感――とでも言い表せばいいのか。とにかく不快なその感情が強まるのは、荒北が福富の話をする時だった。
 一見すれば、普段と変わらない様子で、荒北は福富のことを事も無げに語る。実際に恋人という関係になる前までは、金城も違いに気づいていなかった。しかし、一旦恋人になり距離が近づいてしまえば、その違いは明白だった。
 いつも通りの表情ながらも、目には追憶の色が浮かび、唇が僅かに綻ぶ。声は、熱心な教徒が聖書を読む時のそれに似ている。福音を口から零すような、そしてそれに喜びを感じているような、何とも言えず幸せそうな雰囲気。
 それを見せつけられる度に、金城は酷く居心地の悪い思いをした。胸が焦燥感と不安感で焼けるように痛む。荒北が福富にどうしようもなく惹かれていることはわかっていた。その感情が恋愛感情では無いことも知っている。けれど、荒北は福富のことを深く知っているし、福富は荒北を救った恩人であるという事実は動かしようが無い。金城が荒北の恋愛感情を一手に引き受けようと、それ以外の好意はーー尊敬や友愛は、すべて福富に向けられているのだ。その事実が金城を酷い不安の海に突き落とす。
 抗いようのない波に揉まれながら金城ができることといえば、なんでも無い振りをすることだけだった。福富のことも、荒北の過去も、少しも気にしていない。なぜなら俺は恋人なのだから。荒北が最も愛する男なのだから。半ば自分に言い聞かせながらじっと耐え、何度も何度も打ち寄せる荒波を乗り越えた。

 丁寧に優しく荒北を扱う。野良猫に懐いてもらおうと、毎日エサを持ってきたり、少しずつ距離を縮めていったりするように。荒北は割と早く自分に慣れてくれたし、恋人という位置まで与えてくれた。それでも、自力では抜け出せない暗闇から荒北を引きずり出した飼い主は福富なのだ。
 俺は永遠に、荒北の飼い主にはなれない。
 嗅覚だけでなく勘も鋭い荒北には、自分の考えなどすべて筒抜けなのではないか――と、金城は思うことがある。
 金城がまるで媚びるように、機嫌を伺うように荒北に触れる時、荒北はたまに見透かしたような目で金城を見る。浅ましくそれでいて浅はかな考えなど見抜いている、とでも言いたげなその視線に、金城は黙って顔を逸らすことしかできない。荒北はそれに言及することなく、されるがままにされる。荒北の言葉で自分の恥を暴かれないのも、むしろ金城には責め苦に等しかった。荒北に罵って欲しかった。はっきりと言葉に出して欲しかった。オレはお前と福ちゃんを比べてみて、それでお前を選んだ、と。

「最近猫を飼い始めたんです、俺」
 久しぶりに会った今泉が、言いたくて言いたくてしょうがないという顔をしていた理由は、どうやら猫の話らしかった。それを聞いた鳴子があからさまに呆れた顔をする。
「はーあ……猫飼ってからずっとこれですわ。携帯の中身猫の写真でいっぱいにして、隙あらば人に見せてきよる」
「そんなに可愛いか、猫は」
「飼う前はここまでだとは思ってなかったんスけど、すごい可愛いです。猫のためにいろいろグッズとか揃えたり、体に良いペットフードを探したりするんで、なかなか時間取られるのはちょっと面倒ですけど」
「だから言うたやん、犬にしとけって!」
 次に放った鳴子の言葉は、オレの胸をざくりと貫いた。
「猫を飼おうとするとこっちが奴隷になるでってあれほど忠告したやろ!」
 ……ああ、その通りだ。
 急速に冷えていく頭で、言い争う今泉と鳴子を見ながら、金城は心の中で呟いた。
 猫に魅入られ、何とかそれを手中に収め、飼い慣らそうとするものは、猫の機嫌に振り回される奴隷となる。猫に気に入られるためにより良いものを求め、それを惜しげも無く与えるだけの存在。
 飼おうとしてはいけない。飼われたいと思う人間にならなければ。現にあいつは――福富は、荒北を飼おうとなどとも微塵も思っていなかった。無理に首輪を嵌めたわけではない。荒北が支配されることを望まなければ、猫と飼い主の関係は成立しない。合意とは言うけれど、実際は荒北の希望から首輪は作り出されたのだ。
 その真実に辿り着いた時、金城は自然と笑っていた。今泉と鳴子がぎょっとした顔をして金城を見る。それを意にも介さず、穏やかな声で二人に語りかけた。
「礼を言う、二人とも。とても役に立つヒントを与えられた」
「ひ、ヒント……?」
「やー、あの、役に立てたなら嬉しいんやけど……金城サン、今めちゃくちゃ物騒な笑い方してはりますで。とんでもない悪巧み顔というか」
「おい鳴子! 失礼なことを言うな!」
「いいさ、今泉」
 実際に俺は悪いことをーー野良猫が自ら自分の手中に入ってくるように仕向ける計画を、企んでいるのだから。


 蛇と例えられる金城だが、実際本当に蛇のような男だと、荒北は密かに考えていた。
 しなやかな鋼のような筋肉、不屈の瞳、勝つために常に最善の方法を考え出す頭、正義と狡猾を併せ持つ精神。
 いかにも優等生然とした態度と、端正で人好きのする顔立ちは、蛇の狡猾さを隠すための皮にすら見える。優しく正しいように見えて、実は勝利を獲得するためならば正攻法以外も簡単に選ぶ男だ。福富と違う点はそこだ、と荒北は思う。不器用なほど真っ直ぐな福富は、勝利に厳しい条件を付けている。
 相手を完膚無きまでに叩きのめし、圧倒的な力の差を見せつけるのが福富の勝利。
 相手の一歩だけ前を走って体力を温存し、ギリギリで栄光を手にするのが金城の勝利。
 お互いの勝利の価値観が違っていることに本人たちは気づいていただろう。福富がそれでも金城を尊敬し、自分にはできないことをする選手だと褒め称えていたのを、荒北は知っている。しかし、金城はどう思っているのだろう。愚直な福富のことを、一度でも愚かだと思ったことはないのだろうか。ーーいや、あの男はそんなことは思わない、と荒北は頭を振る。人を見下げることなどしない。お前とあいつは違うな、と考えるだけで、決してそれは愚かな手段だとは思わない。それがあいつのやり方か、と納得するだけだ。
 勝利に関すること以外でも、違う点はたくさんある。
 福富はいつでも必要最低限のことしか喋らず、時にはそれが誤解や軋轢を生んだが、それすらも王である者が受ける当然の試練だというように、少しも気にしなかった。金城も決して言葉数が多い方では無いけれど、その一言一言には、福富が放つ言葉とは違う重みがあり、それが相手に言葉の真意を読み取らせる。

 福富の金城への思いは、尊敬であり、敵意であり、信仰であり、羨望であり、恋慕であり、執着であったと、荒北は思う。
 金城は、どう思っていたのか。自分を救った絶対的な王者にそこまで想われていたのに、あの男は顔色一つ変えない。そのことが妙に気になった。荒北にとって福富は特別すぎる存在だ。その上彼には不思議な求心力があり、同じチームメイトだった新開も惹きつけられている。福富に振り向かなかった男というだけで、荒北は金城に興味を抱いた。
 興味が恋に変わるまでかかった時間は、およそ一年。福富に似ているように見えて決定的に違う彼に、どうしようもなく惹かれてしまった。しかしその恋は芽生えた瞬間に諦めていた。
 あの王様にさえ揺るがなかった男が、自分に恋をする理由などない。
 荒北の福富という揺るぎない存在を前提としたその理論は、あっさりと打ち砕かれた。
「お前が欲しい」
 らしくなく僅かに唇を震わせて言う金城に、荒北は目を見開き、静かに硬直した。それでも本能と深層心理が働き、頭で考えるよりも先に、自分も好きだ、と返してしまったのだ。あの時もし正気を保てていたならば、思い直せと言っただろう。
 それからはなし崩し的に事が進み、手を繋ぎ、抱きしめ合い、キスをして、初めての夜を迎えた。その後も同じことのーー甘くて普通で穏やかな日々の繰り返しで、どうも荒北は夢見心地だったのだが、繰り返すうちに気づいたことがあった。
 金城が荒北に触れる時、不自然なほどに荒北の反応を気にしている。不快感や痛みを感じていないかを伺っているのではない。荒北の意識が金城に向けられているか、荒北が金城に溺れているか、それだけを気にしているのだ。
 そして次に気づいたのは、荒北が福富の話をしている時の、金城の何とも言えない表情。嫉妬と不安が入り乱れた感情を、いつも通りの表情で覆い隠そうとするので、さらに複雑な表情になっている。
 その二つに気づけば、結論に至るのは簡単だった。金城は荒北と福富の仲を気にしている。荒北がどこまで福富に心酔しているのか、なぜそこまで惹かれてしまったのか。その理由を知りたがっていて、不安がっている。
 荒北が福富に抱いている感情が恋愛ではないことは金城も知っている。荒北がはっきりと口に出したことが何度もある。それでもその事実に揺らがずにはいられない金城を見て、荒北はこう思わざるを得なかった。
 なんだ、こいつも普通の人間じゃねェか。
 蛇と言われ、福富の執着を一身に受ける彼も、年相応の青年だった。
 荒北はその事実に失望せず、むしろ少し嬉しく思ったくらいだった。完全な男である金城の不完全な一面を知っているのは自分だけだ。この姿はあの福ちゃんですら知らない。筋違いな優越感が湧き上がった荒北は、金城の不安を溶かすことをあえてしなかった。
 ちっぽけな独占欲に身を任せてしまった荒北は、金城の計画に気づくことができなかった。
 己の醜い感情に追い詰められた蛇が、どのようにして獲物に絡みつき、その首筋に牙を立てるのか。荒北はそれを身を以て知ることになってしまう。

 金城が荒北を求めることが少なくなった。金城から荒北に触れたり、キスを求めたりすることが、じわじわと減っていく。荒北から求めた場合はすぐに応じてくれるし、いつも通りーーいや、いつもよりもずっと優しくしてくれる。荒北に決して無理をさせず、キスをしたり軽く撫でるように触れたりすることも忘れない。繊細なガラス細工を扱うかのようなその手つきに、金城が自分に好意を抱かなくなったわけではないと確信はするけれど、金城の態度が妙に受動的になった理由はわからなかった。
 そのことに苛立ちを感じていた荒北だったが、すぐにもう一つの変化に気づく。金城が、荒北の反応を伺うような様子を見せなくなったのだ。荒北が金城を好いていると確信した目をするようになった。優越感を感じられなくなったことの対する不満はあったものの、自信に溢れるその瞳にもまた胸が高鳴る。オレは金城ならなんでもいいのかヨ、と自分自身に呆れてしまうほどに、荒北は金城の虜だった。金城の見たことが無いところを見れるだけで、また好きなところが増えてしまう。
 穏やかに微笑みかけ、とろけるような甘い視線を浴びせかけるのに、決して自ら手を伸ばすことはしない金城に、荒北は完全に翻弄されていた。まるで底なし沼のような優しさだと、荒北は思う。引きずりこむことはしない。ただ相手が一歩踏み出すのを待つ。踏み出した瞬間、ゆっくりと身体が沈み込んでいく。しかしの感覚は不快なものではなく、むしろその逆だ。あまりの心地よさに自分から身体を沈めてしまう獲物を見ながら、金城はきっと笑う。蛇の狡猾さを全面に出した微笑みを見せるのだ。 かつて福富に抱いたことのある、この男に服従したいという思いとは違う。ただひたすら、こいつのそばにいたいと思ってしまう。優しく柔らかく支配されたいと思ってしまうのだ。
 金城が自分を絡め落とすために動いているのはわかる。今の自分の反応や感情は、金城の計画通りなのだろうとも思う。それでも、もう逃れることはできない。金城が大きく両腕を広げて待つ沼の底に、身体を沈めて泳いで行くことしかできない。その腕の中に飛び込んで、温かく抱きしめてもらえたなら、どれだけ幸せだろう。
 いつのまにか、金城の前で福富の話をすることは無くなっていた。もっと言うのならば、荒北の頭の中に福富が浮かぶことが少なくなっていた。レースで顔を合わせれば普通に話をするし、福富にもきっと今までと変わりないように見えているだろう。それでも、日常生活であれほどの比率を占めていた福富のことを、どんどん考えなくなっていっているのは明確だった。心の中に出来ていた福富のスペースを、金城が少しずつ侵略していっている。征服などという大々的で威圧的なのではなく、蛇の狡猾さを活かした、じわじわとした攻略。過去を現在で塗り替えられていくような感じがしたが、荒北には抵抗する気など無い。金城が荒北のことを欲しているように、荒北もまた、金城の支配に置かれることを望んでいた。


 チェレステカラーの首輪は猫の右手がしっかりと握り締めている。だが今では、猫に首輪を眺めて思い出を辿る余裕など無い。首に絡みついた蛇がそれを許さない。蛇が首筋に噛み付いて与える甘い痛みに気を取られて、過去に目を向ける暇など無いのだ。
 徐々に薄れゆく過去に救済を与えた王を見送りながら、蛇と猫は幸せそうに目を細めた。