戒め

 ばたばたと慌ただしい足音の後、執務室の扉が乱暴に開かれた。
 扉が壁に勢い良く当たった時の、耳をつんざくような音に思わず眉を顰め、提督は顔を上げた。
 酷く慌てた様子の大井が、頬や額にいくつもの汗を光らせながら、叫ぶように言う。
「提督っ! き、北上さんが――北上さんが、阿武隈さんと掴み合いの喧嘩をしてるんですっ!」
 数秒の沈黙の後、提督は万年筆を納め、書類を机の隅に寄せた。
 非常にゆっくりとした優雅な動きで机の上に両肘をつき、指を組み合わせると、
「いつものことじゃん」
と静かに告げた。
「いつものことですけどそれがなんだっていうんですか!! 北上さんが怪我をしそうになってるんですよ!! あの女を早く解体してください!!」
 ヒステリー気味に喚く大井を、提督は呆れと諦めが混ざった目で眺める。
「大丈夫だって。そのうち誰か止めてくれるでしょ。ていうか大井さんが止めれば?」
「私が手を出したら阿武隈さんがどうなるかわかりませんよ。それでもいいんですか提督」
 瞳の中に冷たい炎を燃やす大井を見ながら、提督は冷や汗を流し、ため息をつく。

 ここ数日、提督は事務仕事に追われていた。
 立て続けに海域を突破し、一日に数十回遠征艦隊を繰り出しているため、報告書の数が普段より数倍多くなっていた。
 報告書に目を通し、判を押し、本部に届けるための「報告書の報告書」を作成する。決して事務仕事が不得意ではない提督も、この作業とも言える業務が数日間続いていれば、相当の疲労が溜まるのも当然だった。
 その上、出撃・演習・遠征・任務の報告書以外にも厄介なものが存在している。
 始末書である。備品の破壊や和を乱す行動などを行った艦娘は、状況説明と反省文を書いた始末書を提出しなければならない。
 始末書を書くように指令を出すのは、提督ではなく加賀だ。鎮守府内の出来事になかなか気を配れない提督が、少し前に加賀に一任したのだ。
 始末書は提督に提出し、また提督は「始末書の報告書」を作成しなければならない。報告書とまったく同じ手順である。
 そしてその始末書の数は、報告書の数と比例して増えていった。始末書さえなければ提督もここまで疲労することはなかっただろうと言うほどに。
 忙しなく鎮守府と海を行き来する遠征艦隊。
 常に微量の疲労を抱えながら戦い続ける出撃艦隊。
 ここ最近の鎮守府内は非常に騒がしく、落ち着きがなかった。そのせいで艦娘の精神にも悪い影響が与えられ、ほとんどの艦娘が常に苛立っている。小さな口論から掴み合いの乱闘まで、艦娘同士の喧嘩が絶えない日々が続いているのだ。自然と始末書の数も増える。そして、提督の仕事も増えるのだった。

「……悪いけど、大井さん。私、この書類全部片付けなきゃいけなくて、今ここを離れられないんだよね。その二人の喧嘩の始末書も処理しなきゃいけないだろうし……また仕事が増えたなあ」
 眉間を揉む提督を見て、大井は平静を取り戻した。提督が艦娘以上に忙しくしていることは、大井もよく知っていた。いつも通りの些細な喧嘩などに首を突っ込んでいる場合ではないのだ。
 大井はその事実を思い出し、
「提督の事情なんて知ったこっちゃありません。早く北上さんを助けてください」
と無慈悲に言い放った。
 それを聞いた提督は一際大きなため息をつくと、諦めたようにフッと笑い、席を立った。秘書艦の席に静かに座り、淡々と業務をこなしている叢雲をちらりと見やる。
「……ごめんね? 叢雲ちゃん」
「もういいわ、行きなさい。こっちは何とかしとくから」
 叢雲も提督と同じ諦めた顔をして、お許しを出した。
 それを聞いた大井は、提督の手を素早く掴み、執務室を飛び出して、食堂へと走った。


「あーもう、うっさい! そんな昔のこといつまで言ってんの!」
「昔のことってなんですか! 北上さんこそ、いい加減自分の過失だったって認めてください!!」
 お互いの胸倉を掴み、激しく口論を交わす北上と阿武隈。二人を取り囲む野次馬の中には、龍田や木曾などの権力者も居たが、二人とも静観している。天龍が関係ないことにはとことん無関心な龍田はともかく、木曾がこの場を諌めないのは珍しい自体だった。
 提督がするりとさりげなく木曾に近寄り、ささやきかける。
「木曾、どうしたんだこれ」
「ん? ああ、提督か。見ての通り、いつものことだ」
 よくよく見ると、木曾の目の下には薄く隈が表れていた。遠征艦隊の旗艦として活動し続けている木曾もかなり疲れているようだった。これ以上消費できる体力が無いのかもしれない。
「お疲れ。寮に戻って寝てなよ、後は何とかするから」
「……お前が来たなら大丈夫か。じゃあ、失礼するぜ」
 大きなあくびを一つすると、やや覚束ない足取りで木曾は食堂を出て行った。
「提督、早くどうにかしてくださいっ!」
 今にも発狂しそうな大井と提督の横に、すっと人影が進み出た。
「どうしたんだ、提督、大井。やけに騒がしいな」
 鎮守府を影で支配しているとされている三人の女帝の一人、日向だ。冷静な表情と口調が特徴だが、その冷静さは冷徹さにも変貌する。無表情のまま割と残酷なことをすると恐れられているのだ。
 彼女は北上と阿武隈を見ると、すべてを把握したようだった。そのまま視線を提督に移動させる。
「私が止めようか、提督。君も疲れ切っているんだろう。私は先ほど休んできたから大丈夫だ」
「ほんと? じゃあ、お願いしようかな。ごめんね日向」
「気にするな」
 日向はクールな微笑を漏らすと、人混みをかき分けてずんずんと進んでいく。そして、掴みあっている北上と阿武隈の前に立つと、両拳をぐっと握りしめた。
「あ」
 大井の口から零れ落ちた、短い悲鳴。それはこれから愛する恋人に降りかかる悲劇を予感したものだった。そしてその予感は当たる。
 北上と阿武隈のみぞおちに、日向の硬い拳がめり込む。二人の口から、ぐ、という小さな悲鳴と空気が漏れ出て、その瞬間二人は左右に吹っ飛んだ。
 二人の小柄な体は、咄嗟に避けた野次馬たちの横をすり抜け、目にも留まらぬ速さで壁に叩きつけられた。
 流麗な動きと、抜群の破壊力。そしてそんな美しい惨劇を繰り広げた張本人である日向の、いつもと変わらない無表情。
 野次馬たちはそれらすべてに呆気にとられ、その場から動けなくなる。
 日向は悠々と、堂々と歩き、提督の前に立つと、また微笑む。
「これでいいだろうか、提督。二人の喧嘩は止めた」
「……うん、ありがとう……」
 震えた声を発する提督の横を、満足げな顔をしてすり抜ける日向と、膝から崩れ落ちる大井。凍りついたままの野次馬。壁に寄りかかったままピクリとも動かない北上と阿武隈。
 そんな地獄絵図を眺めながら、提督は改めて思う。
「ブラック鎮守府は悲劇と争いしか生まない」
 そして、同時に決意する。
「これから数日間、すべての業務を停止して、完全な休日を作ろう」
と。