些細な

「鈴谷ー、これどう思う?」

「ああそうだ、鈴谷、今度買い物行くんだけど一緒にどう?」

「ねえ鈴谷、あの映画見に行きたいって言ってたじゃん? 前売り券買ってきたから行こうよ」

「鈴谷は話がわかるなー、はは」


 ここ数日、何かと提督は鈴谷の名前を出す。
 最上型重巡洋艦3番艦、鈴谷。最近建造で出てきて鎮守府に仲間入りした、明るくサバサバした性格の少女だ。
 同じくサバサバした性格の提督と鈴谷は馬が合い、立場を超えた友情を一瞬にして築いていた。
 鈴谷と少し似ている北上のことも友達と言ってはばからない提督は、そういう性格の人間の方が好きなのかもしれない。
 そして、提督の一番の寵愛を受けている叢雲も、鈴谷や北上と似た性格だった。
 だからこそ彼女は――叢雲は、焦りを感じている。
 自分と似た性格で、しかも自分より愛想の良い鈴谷ならば、自分を簡単に突き落とすことができるかもしれない。今自分がいる居心地の良い場所に立つことができるかもしれないのだ。
 叢雲は僅かに唇を噛み締めながら、いかにも仲良さげに話す提督と鈴谷を見守る。
 こう見えて提督は仕事に対して誠実だ。書類仕事や挨拶回りも淡々とこなし、責任感もある。業務中に無駄口を叩くことも、実はほとんどない。
 けれど、報告書作成中なのにも関わらず、提督は鈴谷と楽しげにおしゃべりをしていた。報告書を提出にしに来た鈴谷を捕まえて、鎮守府内の話だとか、今流行りの洋服の話をしている。
 それがひどく気に食わなかった。
 会話に興じながらも、提督の手は止まってない。仕事の妨げにはなっていない。でも、とても不快だった。
 それを露骨に態度に出すほど、叢雲は子供ではない。一番好かれていると言えども所詮は秘書艦、上官の補佐をするためだけに存在している。業務中に私情を挟むなどもってのほかだ。
 ついに耐えかねた叢雲は、無言で提督と鈴谷の横を通り抜け、執務室を出た。後ろから提督が怪訝そうに名前を呼んでいたが、叢雲は「鎮守府内を見回ってくるわ」と素っ気なく言い放つだけで、足を止めはしなかった。


「あら、叢雲さん」
「……あんたはいつも、いいタイミングで現れるわね」
 廊下で偶然出会った大井を見て、叢雲は溜め息をつく。その嫌そうなリアクションはあくまで表面だけのもので、内心は大井に会えたことを少し有難いと思っていた。
 こんなことを相談できるのは、艦娘を代表する同性愛者であり、自分と提督の仲を応援してくれる大井くらいなのだ。
「大井さん……あんた、この後何か用事はあるわけ?」
 無愛想な言葉を聞き、大井は何かを察した顔をして、微笑みながら頷く。
「ええ。食堂に行ってお茶でもどうですか、叢雲さん」


「気にすることないと思いますよ。提督、北上さんともあんな感じですから。気の合う友達ってだけですよ」
 大井が出した結論は、実にシンプルなものだった。
 様々な感情が入り乱れた叢雲は、思わず机を叩きながら立ち上がる。
「別に気にしてないわよ!!」
「あっ、単装砲をこっちに向けないでください、こわ、怖いです」
 思わず砲頭を大井に向けると、ホールドアップ状態で激しく首を振る大井。その怯え様に叢雲は平静を取り戻し、席に座り直した。軽く俯きながら、小さく呟く。
「……大井さんは良いわけ? 北上さんと提督が仲良くて」
「あれ、最近同じようなことを聞かれたような……ああそうだ山城さんに聞かれたんだった。提督が北上さんに手を出すことは絶対にないってわかってますから、別にいいんです」
 湯気が立っている緑茶を少しずつ飲みながら、大井は答えた。叢雲は不満そうに聞く。
「なんでわかるのよ?」
 その質問を聞いた瞬間、大井の目から急速に生気が失われ、
「テヲダサナイッテ、ヤクソクシテマスカラ……」
という、妙なイントネーションの言葉が吐き出された。 その突然生まれでた不気味さから、思わず叢雲の顔から血の気が引く。
 大井の目にまた生気が戻った。その移り変わりの早さに、ますます叢雲は顔面を白くする。
「約束というよりはもう、盟約ね。破ったらこの鎮守府は酷いことになります」
「ひ、酷いことになるって……でも、どうせ龍田さん、加賀さん、日向さんに止められるわよ」
 鎮守府を裏で支配しているとされている、恐ろしい三人の名前をあげると、大井はにやりと口角を上げた。
「龍田さんは天龍さんが無事なら他のことに興味はありませんし、加賀さんは私の味方です。日向さんには伊勢さんをけしかけます。サイコクレイジーガチレズ大井を舐めてはいけません」
「別に、舐めてはいないけど……」
「大丈夫よ、叢雲ちゃん」
 困惑している叢雲の横に、誰かがすっと腰掛け、話しかけてくる。
「あら、千代田さん」
 大井の友達の一人である千代田だった。彼女は姉の千歳に並々ならぬ愛情を注いでいる。
「肝心の北上さんを人質に取れば一発だから」
「ああ、そうね」
「それをやられたら太刀打ちできません。勘弁してください」
 大井はあっさりと降参し、そのまま何気なくで言葉を続ける。
「とにかく、心配することはないです。そんなに気になるなら、鈴谷さんか提督に聞いてみればいいじゃないですか」
「聞けるわけないでしょ!! それにあいつはレズじゃないし、鈴谷さんにまでそんな、こ、恋とかするわけないし……」
「ええ、提督はレズじゃないですね。バイですね」
 さらりと投下された爆弾に、叢雲が大きく目を見開く。そのままわなわなと震え始める叢雲の背中をさすりながら、千代田は咎めるような目で大井を見た。が、大井はその視線を受け流し、続けた。
「バイです。あの人、多分ですが人類皆平等だと思ってますよ。誰でも好きに恋愛感情を抱いていいと思っているので、ロリ・ショタにも走りかねません。ていうか、第六駆逐隊を可愛がってる時点でその気があるように見えますよね。本人は自分の子供を可愛がっているような感覚でしょうが」
 とうとうと語る大井、げっそりとした顔の叢雲と千代田。大井はお茶を一口啜り、渇きを潤すと、さらに話す。
「まあ、そんな自由な思想ゆえに、私たち同性愛者を差別しないんでしょうけどね。差別とまではいかなくても、普通はそれなりに区別するものですよ。異性愛者と同性愛者を。提督のそういう部分はとてもありがたいですし、好きです」
 普段は北上や加賀にしか告げることのない「好き」という言葉を軽々と口に出すと、大井は叢雲を真っ直ぐに見据えた。
「そんなに不安なら、意地を張っている場合ではありませんよ、叢雲さん。私も阿武隈さんの登場により不安に苛まれた時は、いつでも北上さんの気持ちを確認してきました。あなたもそうするべきです」
「いや、確認っていうか思いっきり北上さんと阿武隈の仲を引き裂いてたじゃない」
「北上さんと阿武隈さんはもともと関係があまり良くなかったのですが、私はそれを愛情の裏返しだと思っていたのです。とんだ勘違いでした」
 千代田のツッコミを華麗に受け流し、大井は懐かしむような目で明後日の方向を見る。さながら若い頃の恋愛の失敗を語る熟女のような雰囲気を醸し出しているが、本当はそんな生易しいものでも、かっこいいものでもない。この大井という女は、泥沼の中で殴り合うような恋愛をしている。
 叢雲は悩むように目を泳がせた後、目を伏せながら静かに立ち上がった。ぼそりと「ありがとう」と言うと、いつもの堂々とした足取りで食堂を出て行った。
「……悩みが多くて大変ね、叢雲ちゃん」
「提督がジゴロなのがいけないんです。それと……いつまでも自分に自信が持てない叢雲さんも問題ですね」
 真顔で辛辣とも捉えられるようなことを言った後、大井は表情を綻ばせ、苦笑する。
「いつまでも自分に自信が持てていないなんて、私に言えたことではありませんが。とんだブーメラン発言です」


 背筋を伸ばし、何も恥じることはないと全身で物語るように、胸を張って歩く。叢雲はいつもそうやって歩いてきた。
 そういえば、提督に歩き方を褒められたことがあったわね――と、叢雲は過去の記憶を掘り出そうとして、思わず苦笑いした。提督の顔も見たくないというこんな状況でも、考えてしまうのは提督のことなのだ。
 私が初めて会った提督。提督が初めて会った艦娘。
 私たちが歩んできた道のりと時間。鈴谷さんが鎮守府に来てからの時間。
 どう見ても、私たちの方がずっとずっと強い絆で結ばれているのに、なぜ私は確信できないのだろう。
 悲観的に考え込みながら曲がり角を曲がろうとして、誰かの胸に顔を突っ込んだ。
「つっ!?」
「Oh!」
 その小さな悲鳴だけで、誰とぶつかったのかわかった。
 見上げると、華やかで眩しい笑顔を浮かべた金剛と目が合う。
「ハーイ叢雲ー! ごめんなさいデス、怪我はしてまセンカ?」
「大丈夫よ。こっちこそ悪かったわ」
 それなら良かったデス、と、金剛は明るい調子で言う。
 この人を何度羨んだことだろう。素直で明るくて人懐っこくて、好きな人に好きだと言えるその性格を、何度羨んだことだろう。
「叢雲? 何でそんな悲しそうな顔をしているデス?」
「べ……別にそんな顔はしてないわよ」
 言い訳をして、ふと、このとても提督を好いている戦艦は、鈴谷のことをどう思っているのだろうと考えた。
「……ねえ、金剛さん。あなた、鈴谷さんのこと、どう思ってる?」
「鈴谷デスカ? 好きデスヨ!」
 ばっさりと、明るく、楽しそうに言う。叢雲が理由を尋ねる前に金剛は続けた。
「提督のお友達デスから、嫌いなはずが無いのデス!」
「……提督を取られるとか、そういうことを微塵も思わないの?」
「ンー、そうデスネ……思わないことはないデスけど、私は鈴谷と提督がくっついても祝福できマース。だからいいのデース!」
「祝福……できる……?」
「提督が幸せになってくれれば、それでオールOK! Love is the condition in which the happiness of another person is essential to your own……それだけデース」
 叢雲に理解できない言葉を流暢に喋った後、からからと小気味良く笑うと、踊るようにくるりと回りながら、叢雲に歩み寄る金剛。
 口を叢雲の耳に寄せて、これ以上なく優しい声で、異国の言葉を囁いた。
「When a man is in love he endures more than at other times; he submits to everything」
 そしてすぐに離れると、ふんわりと優しい笑顔を浮かべ、手をひらりと振って廊下を走って行った。
 叢雲には言葉の意味はわからない。けれど、今しがた金剛に、これ以上ないほどに優しく慰められ、また同時に諭されたことは、なんとなしにわかったのだった。

 執務室に戻ると、鈴谷はいなかった。
 静まり返った室内に、ペンが紙の上を走る音と、書類同士が触れる音だけが響いている。
 真剣な顔で事務仕事をこなす提督に、0.01秒だけ叢雲は見惚れる。
 黙って真面目な顔をしていれば、美しく見えないこともないのに。口を開けば能天気な言葉と、艦娘を気遣う言葉しか出てこない。まるで残念な優男のような女。
 それでも、叢雲はこの女のことを好いていたし、金剛も、多摩も、扶桑も、大井も、加賀も、他の艦娘も、好いていた。
 ドアが開いたことに気づいた提督が、ゆっくりと視線を上げ、叢雲を見た。
 表情を優しく緩め、慈しむように目を和ませる。そして、突然部屋を出て行ったことを責めるわけでも、理由を聞くわけでもなく、ありきたりな言葉を紡ぐ。
「おかえり、叢雲ちゃん」
 ――まあ、何というか、結局のところ。この一言が、この視線が、この笑顔が欲しかっただけなのよね。
 叢雲は心の中で結論付けると、少しだけ穏やかな気分で、恥ずかしそうに言う。
「ただいま」