永遠に続く栄光

 よく人にお気楽な奴だと言われるけれど、実はそうでもない。
 人並みに緊張するし、物事を過度に楽観的に取らえたことも無い。不安や焦りに駆られたことも多々ある。
 そう、例えば今とか。
 現在、艦隊を指揮する提督の数は130万人を超えているという。
 着任には抽選での選抜が行われ、いつまでも着任できない人間もいる。提督を志してすぐに着任できた私は、幸運な方なのだと思う。
 晴れて提督となった私は、秘書艦を選ぶように言われ、候補の艦娘たちの説明を受けた。悩みに悩んだ末に私が選んだのは、叢雲という駆逐艦だった。
 そして本日、叢雲との初顔合わせである。だからこそ私は、全身から汗が吹き出すほどに緊張していたのだ。
 提督に着任して間も無い私は、まだ右も左も分からない状態だ。そんな私の頼みの綱である叢雲に気に入られなかったり、機嫌を損ねたりしてしまうことがなにより恐ろしかった。
 ……グダグダと悩んでいても仕方が無い。私は覚悟を決め、今日から私の執務室となる部屋のドアを開けた。
 木製の重厚なドアを控えめに開けると、そこには一人の少女が佇んでいた。
 水色の髪に、オレンジ色の瞳。気の強そうな、可愛らしい顔立ち。小柄で、胴も手足も細い。
 この子が私の初めての艦娘、叢雲なんだ。
 私に気づくと、叢雲はゆっくりと目を見開き、驚愕の表情を浮かべた。私は慌てて挨拶をする。
「はじめまして、今日から君の指揮官になる――」
「……な」
「え?」
「女……?」
 呆然としている叢雲の口から、小さな呟きが零れた。その一言だけで、私はすぐに全てを察した。
「……聞いてなかったの? 女だって」
「聞いてないわよ! わ、私はてっきり男だと……!」
 見る見る顔を真っ赤にして、眉を吊り上げ、怒鳴り出す。小さい体から放たれる大きな声に、思わず肩を竦めると、叢雲ははっと口を閉じた。不機嫌そうな顔のまま、ふいっと顔を背ける。
 その反応があまりにも可愛らしく、私の中の緊張が氷のように溶けていった。唇が自然と綻ぶ。
「今時珍しくないでしょ、女性提督なんて。少数派ではあるけどさ」
 私の笑みが勘に障ったのか、叢雲はまた眉根を寄せて声をあげた。
「そりゃ、事前に聞いてれば私だって驚かなかったわよ! まったく、なんでこういう大事な連絡が疎かになるのかしら! 呆れて物も言えないわ! ああもう、私がこんなに感情を昂らせることなんて滅多に無いのに……!」
 叢雲はイライラと腕を組み、私を睨むように見た。そして、つっけんどんな口調で言う。その様子さえ可愛らしかった。
「……吹雪型5番艦、叢雲よ。知ってるでしょうけど、一応自己紹介しておくわ」
「ああ。よろしくね、叢雲ちゃん」
 右手を差し出すと、叢雲ちゃんは一瞬迷うように視線を彷徨わせたあと、そっと私の手を握り、すぐに離した。そして、照れ隠しか、また声を張り上げた。
「私が居る以上、あんたに敗北はあり得ないわ。私に恥をかかせたら承知しないわよ!」
「はは……うん、わかったよ」

 これが、叢雲ちゃんとの初めての会話だった。
 あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。私は把握できていないが、きっと叢雲ちゃんに聞いたら、罵倒を混じえながらも正確に教えてくれるはずだ。叢雲ちゃんが私と出会った日を大切にカレンダーに記してくれていることは、青葉から聞いて知っていた。
 最初は我ながら頼りない指揮官だったが、叢雲ちゃんは私を見捨てることなく、懸命に支えてくれた。
 艦娘も増え、任務をこなして行くうちに指揮できる艦隊の数も増えた。
 その分補給や遠征の管理が大変になったけれど、響や赤城さんがサポートしてくれた。資材が足りない時は、すぐに遠征で取りに行ってくれた。資材を消費していっているのは主に赤城さんなんだけど。
 疲れた時は多摩や金剛が気を遣ってくれるし、失敗は北上さまや比叡、霧島さんが必死に補ってくれる。
 まだまだ完璧とは言えないが、着任したばかりの時と比べると、大きく成長しているんじゃないかと思う。
 今も沖ノ島でだいぶ苦戦しているが、きっと突破できるだろう。
 私が年を取り、提督を引退し、ただの老婆になった時、若き日々を鮮明に思い起こしたいと感じる時が絶対に来る。私はそう思い、この日記を書くことにした。面倒臭がりな私が毎日書けるとは到底思えないが、艦娘たちも協力してくれるらしいので、多分大丈夫だろう。早速、この文章を書いている今現在、叢雲ちゃんが私が真面目に書いているか監視してくれている。私が忙しくて書けない時は、艦娘が交代で書いてくれるらしい。ありがたい話だ。提督思いの子たちばっかりで嬉しい。
 ……思わずにやついていたら、叢雲ちゃんに叱られた。いけないいけない。気を引き締めよう。元々、文章を書くのは得意な方じゃない。読みにくい文章になるかもしれないが、読んでくれると嬉しいよ、未来の私。
 艦娘たちと別れ、一人もしくは家族と過ごしているであろう私へ。
 私はこの日記帳に、私が絶対に忘れたくない日々を記す。
 辛くて苦しかったけれど、楽しく輝いていた毎日を、これを読んで思い出してくれ。

 まずは今日のことを書こう。
 今日は朝から叢雲ちゃんに叩き起こされて――……


 黄色く変色したページを、細く、しわしわになってしまった指で捲る。
 ありがとう、若い私。
 お前が思った通りになった。私は引退し、隠居生活をする老婆になり、昔をはっきりと思い出したくなった。
 色褪せた記憶に鮮やかな色を与えてくれる、この日記帳を残してくれたことを、本当に感謝している。
 だけどね、私よ。お前の予想は、少し外れた。
 私はひとりぼっちでもなければ、家族と過ごしているわけでもない。そして、艦娘たちと別れたわけでもない。
「お茶、持ってきたわよ」
 輝いていたあの毎日と少しも変わらない声が、背後から聞こえた。私がゆっくりと振り返ると、彼女は口元に穏やかな笑みを浮かべ、私の前にある机に湯呑みを置く。そして、私が手に持っていた日記帳に気づいた。
「それ、読み始めたのね」
「ああ。まったく、懐かしくて涙が出そうになるよ。これを残してくれて本当に良かった」
「そう」
 相変わらずの、ぶっきらぼうな口調。それでもその言葉の端々に、隠しきれない優しさが滲んでいる。
「なあ。何でお前は私のそばに居てくれるんだ。もう提督でもない私のそばに、何で居てくれるんだ。なぜ、引退した私を鎮守府に住まわせ続けるために、わざわざ上に直談判してくれたんだ」
 そう問いかけると、彼女はむっとしたように眉をひそめ、顔をぷいっと背けた。その仕草さえ、日記の中のあの時と同じで、強烈な既視感に襲われる。それと同時に笑みが浮かんできて、思わず唇の端を吊り上げると、彼女は私をきっと睨みつけた。そして、私の手から日記帳を奪い取る。
「文字を読むのも疲れるでしょ。私が読んであげるわ」
 私の質問に答えないまま、手近の椅子にどっかりと腰を下ろし、栞を挟んでいたページを開ける。
 夕陽が差し込む窓の外から、賑やかな声が聞こえた。赤城や北上が帰ってきたのだろう。廊下を駆けてくる足音は、きっと金剛と比叡だ。隣の部屋のドアが開いた音が聞こえる。多摩が昼寝から起きてきたのかもしれない。
「騒がしくなってきたけど、読むわよ」
 こほんと咳払いをひとつすると、叢雲ちゃんは読み上げ始めた。
「今日は朝から叢雲ちゃんに叩き起こされて――……」
 私はゆっくりと目を閉じた。
 叢雲ちゃんのしっかりとした声。艦娘たちの楽しげな話し声。カラスの鳴く声。
 いくつもの足音。ドアが次々と開閉する音。ドックから聞こえる水音。
 あの輝かしい日々と、何ら変わらない毎日だ。私が老いてしまったこと以外は。
 私だけが変わっていくことが、悲しくないわけじゃない。でも、それ以上に嬉しい。
 若き日々と今の日々が同じくらい輝いていることを、私は知っているから。
 叢雲ちゃんが読み上げる声を聞きながら、私はゆっくりと過去を思い出していった。