桜流し

 喪服に付いた、薄い桃色の花びらをつまみ上げた瞬間、春風がそっとそれをさらっていってしまった。
 それを名残惜しいような気持ちで眺めながら、首を締め付ける黒いネクタイを緩める。高校時代からネクタイは嫌いだった。たしかあいつも嫌いだったはずだ、いつもオレと同じく緩めていたから。
 高校の卒業式は、今日と同じような快晴だった。舞い散る桜の中、あいつが少し不安げに瞳を揺らしながら言った言葉を思い出す。
『ごめんな、おめさんのこと好きみたいなんだ』
 あいつの余裕が無い表情は非常にレアで、オレはその綺麗な顔に見惚れながら、浮かされたようにコクリと頷いた。
 オレ達の関係は、あいつの一言とオレの無言から始まった。
 同じ大学に進学せず、物理的な距離ができた。それを気にしてか、あいつは精神的な距離を執拗に縮めてきた。
 電話越しの余裕の無い声が、甘い言葉となって繰り返し繰り返し吐き出された。それはオレを繋ぎとめようと必死なあいつが、オレに打ち込んだ楔だった。抵抗する気もなかったオレは簡単に鎖に囚われ、まだ何も知らない若造だったオレだが、それなりの覚悟を決めた。
 こいつと一生を共に過ごす。どんな障害があっても、それを乗り越えてまで一緒にいたい、と。

「――信じられない」
 思わず唇からこぼれ落ちた言葉に、通行人が怪訝そうな顔をしてこちらを見るが、すぐに気まずそうに目を逸らす。
 頭上の満開の桜を見上げながら、オレは今度は心の中で呟く。
 信じられない。未だに信じられないんだよ。お前と、もう会えないこと。
 一生を過ごすという誓いが、こんなにも早く遂げられてしまったこと。
 だって――だって、オレはまだお前に何も言ってねえ。お前がたくさん伝えてくれたことの半分も伝えてねェだろ。
 なのになんでお前はもう、オレの横に居ないんだ。
 視界の端で、泉田がオレに向かって歩いてくるのが見える。真っ赤に泣き腫らした瞳で、それでもしっかりと自分の子供を抱きかかえている。横には泉田に勿体ないくらいの出来た奥さんが居て、崩れ落ちそうな泉田を支えている。火葬場を抜け出したオレを、どんなに悲嘆に暮れていてもきっちり探しに来るあたり、優等生気質は変わっていないようだった。
 無垢な寝顔を見せる赤ん坊を見ながら、泉田は震える声で「一ヶ月前に生まれたばかりなんです」と、あいつの遺影に向かって言った。その痛みを堪えているような横顔を見ながら、オレはぼんやりと想像した。心底嬉しそうな顔で、赤ん坊よりも無邪気な笑顔で、泉田の子供を抱きかかえるあいつを、想像した。きっとあいつならそうする。自分のことのように喜ぶ。かつて命を奪い去ったあいつは、新しい命が生まれたことを、誰よりも尊ぶ。
 泉田の元に行くために、ゆっくりと立ち上がる。どうにも小腹が空いた。こんな時でも腹は空く。身体がオレを生かそうとする。
 お前がいなくなったところで、オレは生き続ける。大切な何かを失ったところで、普通に生きていく。
 お前無しでもオレは生き続ける。

 お前はお前じゃなくなった。煙と燃えカスと骨になった。お前はオレのそばにいない。もうどこにもいない。道の上にも、自転車の上にも、部室にも、オレの部屋にも、どこにも。
 けど、これでいい。
 泣き崩れるかつてのチームメイト達の中で、オレは一人しっかりと立って、お前が入った壺を見る。
 すべての愛に終わりがあるなら、オレはこの終わりを望んでいた。
 お前の骨壷を心に抱えて生涯を過ごす、オレの命が尽きるまで続く終わりを、望んでいた。